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野宿者を怖がること

 暗い夜道でたまたま女性と通り道が同じになり、中途半端な距離を保ちながら歩くめぐり合わせになってしまったりすることがある。そういうときに、たまーに、駆け足になられたりすることがある。悲しい気持ちになるが、少なくとも腹は立たない。てゆーか、申し訳ない気持ちになる。本当に危害を加えられるような可能性は、少なくとも確率的な問題としては、圧倒的に低い。しかし、こういうときに生じる怖さというのは確率的なものとは無縁のものであって、怖さを感じてしまうこと自体は本人にもどうにもならないところがある。

 野宿者に対して「怖い」と感じる感情も、同様のどうにもならないところに発するものは確かにあるのだろう。山田花子のコメントにしても、分からないではない*1。少なくとも、「怖い」に対して、「本当は怖くないよ」を対置しても、それだけでは残されてしまうものがある。そう言われてしまうところはあると思う。


 このような意味での恐怖心というのは、政治的に正しいものとして位置づけにくいものになってしまっている。恐怖心、すなわち差別意識の表れ、という文脈に取り込まれてしまいやすい。自分を差別的な人間だ、と自認したい人はあまりいない。すると、どうなるか。一つには、恐怖心を否認することなわけだが、それが困難であるとすれば、別の道を行くことになる。すなわち、恐怖の対象が本当に存在している、と信じ込もうとすることになる。そのようにして、「自分が差別的なわけではない」という意識を保とうとするだろう。

 実際問題としては、恐怖を感じているのはむしろ野宿者の側であるし、事実として日常的な襲撃の可能性にさらされているのも圧倒的に野宿者の方だ。その意味で、野宿者に対する恐怖などというのは、事情通の人たちにとっては滑稽なものかもしれない。しかし、いかに滑稽であろうとも、人は知らない対象に対してはどうしようもなく恐れを抱いてしまうことも事実としてあり、その恐れがどこかに位置づけられる必要はあるのではないか。

 そういうわけで、「怖がってしまうこと、それ自体は仕方のないことだ」と、まず承認する必要はあるように思う。その上で、彼らと接した人たちの圧倒的多数が、彼らを怖い存在ではないと語っていることを、同時に認めてしまおう。事実として怖い人たちであるかどうかという問題と、それを自分の身体化された感覚で信頼できるかどうかという問題を、まずはきちんと区別しよう。実際、安全であることを知識として知っているだけでは、本当には安心できない。安全である状態が実際に継続すること、その中で過ごすこと、そうした身体的な感覚を通じて、安心や信頼というものが身体的なレベルで感受できるように、だんだんと、なっていく。それには時間と手間がかかる。だから、怖がってしまうこと自体は、それはそれで仕方ないのだ、と言っておく方がよいように思う。

 この区別をした上でなら、次のように考えることができるのではないか。つまり、自分が恐怖を感じるとしても、それは実際のありようとは無関係なものであるし、実際のありようは恐れを感じる必要がないものである可能性が高い。このことを、頭で、理解しておく。身体的なレベルで怖さがぬぐえないなら、さしあたり近寄らなければいい。しかし、排除する必要はないのだということを、頭で、確認しておく。恐れつつ、しかし、排除しないことは、理性的には可能なことだ。

 もちろん、そのままであるならば、公園の使用はあきらめねばならないかもしれない。公園を快適に使用したいならば、怖さをどうにかする必要はある。そのためには、まず野宿者たちと実際に接してみること、そうしたことを通じて、野宿者がいても別に恐れる必要はないのだということを、体に理解させていく。そういうプロセスが必要になるのだろう。それが面倒であるならば、公園の使用はあきらめる他はないだろう。だから、こういう人たちに提示しうる選択肢は二つだ。知り合うことは面倒だから、近寄らない。そうでないならば、共に同じ場にいることが可能な程度に、知り合う。


 その上で。こう述べられたときに、「どうしてそんな面倒なことをしなければならないのだ」などと言い出す人はいるだろう。それに対しては、公園の想定されている利用法よりも、居住の権利こそが優先するからだ、と述べよう。だから、野宿者がそこにテントを張っているのは認められねばならない。もちろん、少し周りを片付けておくとか、無駄にスペースを占有しないとか、周囲と協調するための配慮はできるだろうし、求めてもいいだろう。しかし、こういうことは(少なくとも長居に関する限りは)かなり自主的に行われてきたことだ。非野宿者側に課せられる責務は、彼らを怖い(あるいはうざい)と感じてしまう己の心情を、己の側の問題として(野宿者の問題ではないものとして)引き受けることだ。とりあえずは、それだけでいい。しかし、そのくらいはしろよ、ということだ。
 それさえもしたくない、とにかく野宿者がいなくなりさえすれば、自分の側では一切の努力をすることなく自分の都合のいい状況になるのだと言いたいのであれば、いくらなんでも我侭に過ぎる。公園はあなたのものではない。そのように言うあなたこそが、公園を私物化している、ということになる。野宿者たちの方が、よほど公共性について真面目に考えている。そして、恐怖心やうざいという感情を抱くこととは別の、その感情を根拠として「排除してよい」と言い切ってしまう感覚こそが、真に忌むべき差別意識である。

追記(2007/02/24)

 オーバーラップする話をあちこちで目にしたので、TBを送ってみたい。
 2007/02/22@AnonymousDiary
 「差別する心」について@23mmの銃口から飛び出す弾丸は
 ふいに突出した差別意識@メモ

 「野宿者を怖がること」の次に、「野宿者として怖がられること」について考えたのが、コレ。>野宿者問題を理解することおよびその2

*1:もちろん、自分たちのコメントが醸し出してしまう差別的な文脈というものに、もう少し繊細になって欲しいなとは思うけれど。