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暴力の区別について

 物理的暴力も精神的暴力も、破壊的な暴力も抑圧的な暴力も、行使による暴力も不行使による暴力も、とにかくありとあらゆる様々な違いを排除して、それらを「暴力」と一まとめに表象する必要は、少なくとも一度は、ある。しかし、一まとめにした一切の暴力を、一度に、廃棄してしまう、などということは、まったく不可能なことであり、そのように述べる人は、アホであるか嘘をついているかのどちらかだ。以下は、id:x0000000000さんに教えてもらったデリダの発言。

 私たちは夢想家ではありません。この観点からすれば、どんな政府や国民国家も、その境界を完全に開くつもりがないことは承知していますし、正直なところ、私たち自身もそうしていないことも承知しています。家を、扉もなく、鍵もかけず、等々の状態に放っておきはしないでしょう。自分の身は自分で守る、そうですよね? 正直なところ、これを否定できる人がいるでしょうか?
 しかし私たちはこの完成可能性への欲望をもっており、この欲望は純粋な歓待という無限の極によって統制されています。もしも条件つきの歓待の概念が私たちにあるとしたら、それは、純粋な歓待の観念、無条件の歓待があるからです。(『デリダ脱構築を語る』より)*1


 暴力を区別するやり方には、広く知られているものとしては二通りある。一つは、正しい目的のための暴力と、間違った目的のための暴力という区別。いわゆる正戦論。この区別は極めて広く知られており、極めて多くの人が安易に乗っかっている区別であるにも関わらず、到底容認できない考え方である。なぜならば、正しい目的と間違った目的を選別する特権者を前提しない限り成り立たず、そしてそのような特権者はありえない、あるいはありえたとして誰がそのような特権者か知りえないからだ。
 私たちは、「正しい目的だと信ずること」のために暴力を使うことしかできない。それは間違っているかもしれないという留保が必要である。暴力行使が間違いでありえるとしたら、暴力行使にあたって私たちは幾つかの原則を必要とする。第一に、間違いであったかどうかを事後的にであっても指摘可能であるように、暴力行使の決定が批判に開かれていなければならない。それは「永久に」開かれていなければならない。第二に、間違いであった場合に、それを事後的に修復・緩和することが可能であるように(完全なる修復・緩和が不可能であるとしても、それが最大限可能であるように)、そもそもの暴力行使を必要最小限にとどめなければならない。破壊が問題であるならば、破壊できないようにする。それ以上のものである必要はない。
 この第二の理由によって、別のやり方で暴力を区別することが要請される。あらゆる暴力をできるだけ細かく分類し、最大限の慎重さによって用いること。そしてそれが間違いでありえることを認めること。暴力はそのように運用するしかないのである。私たちは怪しい奴を撃ち殺すよりも、入り口に鍵をかけることの方を選べばいい*2。暴力行使を、より弱い暴力の行使に置き換えながら、漸進的に減らしていくことしか私たちには可能ではないのだから*3


 以下、引用したデリダ本と個人的に参考になった本。デリダ本は未読。後二冊も読んだのは大分前なので、今回の話とどうつながってるか(あるいはつながってないか)については責任もてません。

デリダ、脱構築を語る シドニー・セミナーの記録

デリダ、脱構築を語る シドニー・セミナーの記録

人道的介入―正義の武力行使はあるか (岩波新書)

人道的介入―正義の武力行使はあるか (岩波新書)

暴力の哲学 (シリーズ・道徳の系譜)

暴力の哲学 (シリーズ・道徳の系譜)

*1:x0000000000さんの引用の孫引きなで、正確には元本にあたってください。

*2:もちろん、ここで、「ドアに鍵をかけること」を暴力だと僕は述べている。これは絶対的に正しい、と僕は思っている。私有財産制度は、私有財産制度の中で生きることが可能ではないような誰かにとって正しい制度ではなく、ゆえに誰かが生きるために私有財産制度を侵犯する=私の家に侵入して食べ物をあさることを「悪いことだ」と名指すことはできない。それは悪いことだと名指すことができないが、私にとって不都合だから、実力をもって排除するのである。これに良いも悪いもない。他方、実力をもって排除しながら、その誰かが何のために侵入しようとしたのか、その理由は、真剣に受け止められるべきである。真剣に受け止められるとは、真剣な反論にさらされること、真剣な討議の対象とされることを意味する。

*3:そして、そのためにも、憲法第9条のような「欺瞞」をちゃんと掲げておく必要がある。