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愚民化基本法原案の批判+十六条&十七条批判

 「「教育基本法」について知るためのメモ/「新教育基本法案」へのツッコミまとめ。 - 荻上式BLOG」が逐条批判の論理倉庫として提供されているので、僕も祭りに便乗したい。


 僕の教育に対する基本的な立場とは、「教育は、「いま・ここ」にない世界を構想する領域であるために、今・ここにある国家と根元的に対立しているべきものである」というものだ。
 だから、教育に対して、国家が価値を書きこんではならない。これは大前提である。愛国心だけではない。環境保護の精神も、勤労の倫理も、一切、国家は書きこんではならない。ただ一つだけ、「私たちが共に生きる」という目標だけを、憲法に慎ましやかに書いておけばいいのだ。
 愛国心がダメなのは、その中身次第で「私たちが共に生きる」可能性を妨げるからである。「私たちが共に生きる」ことを妨げない愛国心だけが認められるし、そうではないなら愛国心も批判されなければならない。伝統に対しても、それが「私たちが共に生きる」ことを妨げるものであるならば破壊すべきだし、それが「私たちが共に生きる」ことを可能にするものであるならば、守るべきである。伝統に価値があるのではなく、それが「私たちが共に生きる」ことに貢献する場合には、共に生きようとしているはずの私たちにとって価値がある。そのように話は組み立てられねばならない。
 同様に、もし、環境保護の精神が「私たちが共に生きる」可能性を妨げるのであれば、それはそのときに放棄されねばならない。そのような論理は、今は、まだない。環境保護は、むしろ人間社会の存続の条件と見なされているし、実際そうだろうと「僕も」思う。しかし、僕らはこれを、常に、議論に開かれたものとしておかねばならない。「なぜ国を愛さねばならないのか」という問いを発することができるのと同じように、「なぜ環境を保護せねばならないのか」「なぜまだ存在さえしていない将来世代に配慮せねばならないのか」といった問いを発することができるようにしておかねばならない。そして検討の結果、僕らの考えを変える可能性に開いておかねばならない。何を言ってもよく、何を議論してもよい。
 そこで僕らが共有しておかねばならないものは、真理と正義へ向かおうという態度であり、かつ、それだけである。その意味で、第一条において「真理と正義を愛し」の文言が削られたことは、この提案の愚かで醜い本質を赤裸々に示している。


 それにしても、もっとも恐ろしいものは、リヴァイアサンであることを忘れられた国家である。もっとも恥知らずなものは、国民にリヴァイアサンであることを忘れさせようとする国家である。今まさに、国家はその本来の姿を隠し、違うものとして我々に理解させようとしているのであるし、我々の社会はそれにうまうまと乗ろうとしているのである。しかし、警察も軍隊も監獄も完備している国家は、いかに洗練されているように見せようとも、その着ぐるみの中にいるのはリヴァイアサンなのである。教育基本法改正促進委員会の提案は、おばあちゃんの衣装を着てベッドにもぐりこむオオカミのような、狡猾さと、邪な欲望と、滑稽な図々しさそのものである。こんなものに騙されるとは情けない。
 逐条批判は、また別エントリで一つずつあげていくが、とりあえず手薄なところを狙って、いくつか書いておく。

第十六条

(宗教に関する教育) 第十六条

一 宗教に関する教育は、宗教への理解と寛容の態度を養うことが重視されなければならない。

二 宗教的情操の涵養は、道徳の根底を支え人格形成の基盤となるものであることにかんがみ、教育上特に重視するものとする。

三 国及び地方公共団体が設置する学校においては、特定宗教の信仰に導き、又はこれに反対するための教育を行ってはならない。

 第一項。宗教への理解と寛容について、従来は「宗教に関する寛容の態度及び宗教の社会生活における地位は、教育上これを尊重しなければならない」と書いている。すなわち、寛容の態度が求められるのは、教育者であり教育機関の側である。これに対して、提案では教育を受ける側こそが求められるように読める。アベコベではないのか?
 そしてより重要な点として、宗教的なものだけに選択的に寛容であることはできないし、できるのならば、有害である。私たちが持つべきは、この提案が削除したところの「真理と正義」への態度である。真理と正義への態度は、当然に、誤りうるものとしての自分の自覚、別の道から真理と正義に迫ろうとする異なる宗教を持つ者への寛容につながる。寛容さとは、真理と正義に対する態度を共有するからこそ生まれる。それを破壊しておいて、宗教的寛容とは片腹痛い。第一条と共に元にもどすべき。
 第二項。端的にこんなことを言える根拠はない。宗教的情操の涵養が道徳の根底を支えることもあれば破壊することもあるし、また宗教的情操以外の何か*1が支えることもある。不十分であり、間違いでもあり、完全に蛇足である。削除すべき。

第十七条

(環境教育) 第十七条

一 地球環境を保全するため、あらゆる段階において、自然を尊び、自然との共生や一体感をはぐくむ教育を重視するものとする。

 既に書いたように、私たちは真理と正義に忠実であればよいのであり、私たちが共に生きる可能性が、自然を破壊することにのみあるのであれば、自然を敵として破壊する可能性に、ちゃんと開いておかねばならない。環境保護の思想は、批判可能なものとして提示され、批判への応答を通じてその正しさを周囲に理解させていくものでなくてはならない。いきなり「自然を尊ぶこと」や「自然との共生」なんかを教条的に叩き込むことの、何が教育か。

*1:たとえば介護体験を通して得られる<他者>感覚。