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国家と反国家──(1)憲法

 「国歌斉唱のときに座り続けること(Life Studies Homepage)
 これに関して考えようとしたら、国家についての話に終始して、国旗・国歌の話に入れなかった。国旗・国歌は後回しに。


 個々の人間と国家は、相補的でありながら、対立的でもある。国家は我々を保護する装置であると同時に、抑圧する装置でもある。国家の保護とは、治安であり、戦争である。国家の抑圧とは、やはり治安であり、戦争である。国家を国家たらしめているものは、監獄と軍隊である*1
 言うまでもなく、憲法第9条の意義はここにある。辺見庸は言う。「・・・国家を永遠の災厄とする考えにくみするのならば、なぜ、国家存立の基本的条件を定めた根本法である憲法を受容するのか、という問いに再び戻る。私の正直な答えはこうである。それは、日本の現行憲法の根幹が、言葉のもっともよい意味において、すぐれて「反国家的」だからだ」*2日本国憲法は、国家の最大の機能であり抑圧であるところの軍隊を、まず否定している。そこに稀有な先駆性があり、抑圧装置に安住することなく可能性に向けて稼動する国家たろうとする意思が組み込まれているのだ*3

抵抗論 (講談社文庫)

抵抗論 (講談社文庫)


 今・ここでの国家解体を主張する素朴アナキズムは非現実的であるが、国家の抑圧を無視する無邪気なナショナリストも同じくらいかそれ以上に非現実的である。国家は暴力装置である。その抑圧を「考えない」にせよ「仕方ないと切り捨てる」にせよ、どちらも家畜と何ら変わらない。抑圧をなくすことが可能かどうかは知らないが、しかし減らすことはできる。実際、国際社会においても国内社会においても、国家の暴力を牽制し、より抑圧的でないものへと脱構築させてきたのは、反権力的な(=反国家的な)思想・運動である。アメリカのここ数年の暴挙によって著しく傷つけられてしまったとはいえ、とりわけこの60年の間に国際社会で作られてきた数々の規範体系(国連人権宣言、国際人権規約etc...)は、不十分ながらも様々な抑圧に対抗する武器として用いられているし、これらがなかった時代にはもっと酷いことがまかり通っていたのだ。国内的にも同様。我々の人間的な生活を可能にしているのは、警察による治安活動である面も確かにあるが、それ以上に、あらゆる面で国家を規制するルールの方である。
 国家をして、国家を必要としない世界に向けて稼動する装置たらしめなければならない。国家の行動原理の中に、国家の保護を不要とするような世界の建設に向けた明確な意思を組み込まねばならない。国家は、国家をそのまま肯定するだけの思想の中では、最大限に反人間的なものとなる。国家は、反国家的なものを孕むことによってのみ、ただの暴力装置以上のものになりうる。国家に対峙しよう、国家を貫く欲望に対して<他者>として対峙しようとする人々だけが希望である。


 こういうことが分からない人は、国家に対してどのように対処するのか。方法は、論理的に言って二つしかない。自らの意思を国家の意思とするか、国家の意思を自らの意思とするかである。前者は安っぽい独裁者であり、後者は挫折した独裁者であり、どちらも大抵は素朴なナショナリストになる。どちらも醜いし、愚かだ。しかし、はた迷惑だからほっておくわけにもいかない。

*1:高橋和巳辺見庸『抵抗論』p.57参照

*2:『抵抗論』pp.62-63。

*3:『抵抗論』所収の「憲法、国家および自衛隊派兵についてのノート」は大変わかりやすく、すばらしい。アナキズムは単なる国家の拒否なのではなく、国家を乗り越えた世界を構想しようとする挑戦的な思想なのだと、初めてわかった気がする。