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尊厳ある生の先にある死≠「尊厳死」

 リビングウィル「尊厳死について」弘恵ベイリーのHarlem日記のNo.175より。

 父が亡くなるまでの数日間、母と私はずっと看病についていたが、ちょっとだけオシャベリしたくなって母と二人談話室へ行こうとした。いつもは気丈な父が「一人にしないでくれ、どっちか居ってくれ。」と弱々しい声で懇願したのだ。

 この瞬間、死と直面している人の不安や恐怖が、どんなに辛い苦しいことなのかということが伝わってきた。そんな状態を毎日、一人で耐え忍んでいた伯父のことを思うと涙が溢れて止まらなかった。

 とりあえずこの部分は胸が詰まる。僕はこういうことが、なかなか想像できない*1。ただし、こうしたことから次のようにまとめられるあたりでは、ハッキリ違和感を感じる。

 伯父の死を母から知らされた時、家へ帰りたいと願いながらも痩せ細った身体に管をたくさん繋がれ、酸素吸入器をつけた伯父の姿を思い浮かべた。伯父は自分らしく死ぬことができたのだろうか?父は?私は自分らしく死ぬことができるのだろうか?

 自分が死に直面したときには思い残すことなく死にたいし、延命治療など問題外だ。以下は、日本ホスピス・在宅ケア研究会のサイトから抜粋したもの。生きている内に自分の死に方を選択すべく、延命治療に対する意思表示を示すためのリビング・ウィルについて記されている。いわゆる「尊厳死」を遂げるための確約だ。

 「伯父は自分らしく死ぬことができたのだろうか?父は?私は自分らしく死ぬことができるのだろうか?」という問いに行くときに幾分曖昧な話にすり代わっている。「自分が死に直面したときには思い残すことなく死にたいし、延命治療など問題外だ」という話にズレていくところは見逃せない。ここには飛躍(それも優生思想的な)があるように思う。この伯父上は延命治療が不要だったのではなく、せっかく延びた命の時間を埋める何かが必要だったのだ(そしてそれはもたらすことも可能だったのだ)。ここから「生きている内に自分の死に方を選択すべく、延命治療に対する意思表示を示す」必要性は出てこない。
 ということをとりあえず指摘するに留める。

*1:僕だけじゃないのかもしれないけど、でもやっぱり周りにくらべても鈍い自分をしばしば感じる。