「学校」という記号を離れて
2006-03-18 - 催涙レシピ
確かに君が代・日の丸を考えるときに、ある種の理想化された学校に導入されるものとして日の丸・君が代を想起していたわけだけど、その盲点を気付かされたという意味では「やられた」。ただ、次の結論には簡単に首肯できない。
しかし、真の問題は旗でも歌でもなくて、そもそも学校があるということ自体なのです。
僕は職業的教育者だから、自分の利権を守るために少し考えてみる。人が育つにあたり、あるいは自らを育てるにあたり、人が人と行き交う場があることは大事ではある。もちろん、同じ位、行き交う場から隔てられた領域があることも大事である。とすると、人はどうしても集まってしまう。学校とは呼ばれないなんらかの人が集う場所を別に作るのであれ、学校と呼ばれている人が集う場所のあり方を変えるのであれ、それはひとまず同じことである。
- 抑圧のない学校は可能か。
- 不可能であるとしたら、最小限の抑圧しかもたらさない(それはもたらしてしまう)学校というものを考えられるか。
- あるいは学校が解体されるべきであるとして、そこに向かう次の一歩として現にある学校はどう変わるべきか。
卒業式の日の朝にこういうことを考えるというのも、なんか変な話ではあるんだけども。
追記:一夜明けて。卒業式なのでらしくないことをごにょごにょと言ったわけだけど、いろいろグダグダいいつつ最後に話したことは「とにかく生き延びろ」ということでした。3年前の同じ日、イラク戦争が始まって、まだ続いてる。そういう世界だからね。努力や正しさが報われるとは決まっていない世界だから。みんなニコニコしてたけど、全然通じてねーな。あれは。