モジモジ君のブログ。みたいな。

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『生きててもいい…?〜ひまわりの咲く家〜』補注

 「『生きててもいい…?〜ひまわりの咲く家〜』 - モジモジ君の日記。みたいな。」への補注。

人はどうしようもなく不完全である

 当たり前のことなのだが、人は不完全なままで、人の前に立たねばならない。そういう宿命にある。それゆえ、傷つけあってしまう、一方的に踏みにじってしまう可能性が常に付きまとう。この傷つけあいを小さくしていくことは大事なことだが、これは決してなくすことはできない。だから、生じてしまう暴力の可能性を、どこかで引き受ける覚悟がいる。人が人と向き合うということは、人がそばにいるからこその暴力の可能性を引き受けることでもある。これはとても怖いことだけども、しかし、そのようにしか思えない。この可能性を拒否してしまったら、人が人から離れて生きるという選択肢しか残らなくなるから。
 多分、里親里子間だけでなく、親子の間の、あるいは人と人の間の普遍的な関係でもあるんだよね。これって。

問いかけ自体がもたらす肯定

真希と同等かそれ以上に里親母・千佳子も真希を求めていたのであって、「生きていていいですか」と問いかけられた千佳子は、その問いによって<生きていていいですよ>と応答して欲しい<他者>として真希から認められたことによって、真希より先に<生きていてもいい>と肯定されているように、感じます。<生きていてもいい>という問いかけが千佳子にとっての贈り物になっていると、言えるような気がします。
http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20060305/p1#c1141613176

 コメント欄でのやりとりに触発されて思いついたことなんだけども、人を求めることが同時に求められる人を肯定してしまっているというところがある。言葉での肯定を求めるその行為が、既に存在において相手を肯定する振舞いになっているという。真希からの問いかけだけでなく、千佳子から真希への干渉の数々も、抑圧的な歪みを持ちつつも、しかしそれがやはり呼びかけであったということも、見て取られるべきかな*1
 そういや高橋哲哉がこんなことを書いてたのを思い出した。

 他者の呼びかけに応答することは、プラスイメージで、人間関係を新たに作り出す、あるいは維持する、あるいは作り直す行為、そのようにして他者との基本的な信頼関係を確認する行為であると考えられるのではないか。それは他者とのコミュニケーションそのものではないか。ですから、それを原理的に拒否すれば、社会から外に出て、自分だけの沈黙の世界に閉じこもらざるをえなくなります。逆にいいますと、応答可能性としての責任(=呼びかけられること(モジモジ注))とは、私が自分だけの孤独の世界、絶対的な孤立から脱して、他者との関係に入っていく唯一のあり方だといってもいいのではないか。(高橋哲哉戦後責任論』講談社学術文庫、pp.36-37)

戦後責任論 (講談社学術文庫)

戦後責任論 (講談社学術文庫)

*1:その意味で、肉体的虐待の問題は、虐待そのものもそうであるが、それが呼びかけを含んでいないことにあるのではないか。虐待的な呼びかけと呼びかけを含まない虐待は区別しておく必要があるように思う。