「延命に月100万円もかかるんです」
尊厳死・安楽死問題でしばしば口にされる。重度障害者介護の現場なんかでも言われることがあるし、重度知的&身体の重複障害者にして自立生活をしている知人M氏なんかについても、「こんな人が自立生活してて意味あるんか」と言われたりする。関連して思いつきを並べておく。
A 金額ベースではなく実物ベースで考えてみる
「月100万円も」という場合、金額ベースで考えることには意味があるのか。僕が生きていくのに(今、生きているその状況を維持するのに)、「快適な住居、快適な衣類(下着からコートまで)、清潔な水と食事、自転車、パソコンetc...*1」とどんどんリストを連ねていくことができる。他方、たとえばALS患者の場合には「人工呼吸器」「介護(24時間二人)」というような項目がリストに追加される。まずは、このレベルで考えた方がいいのじゃないか。つまり、実物ベースで考えた方がいいんじゃないか。
B 実物ベースで考えると?──知識集約的な財の場合
実物ベースで考えてみると、財の生産条件の違いで問題が分かれてくることもある。たとえば、新薬などでお金がかかるという場合、そのコストの大半は研究開発費だったりする。ならば、単純に考えて「半額で倍売る」ことによって、製薬会社の収益は減らないんじゃないか。問題は、元売り値で買える人が一定数いるとして、半額にして買える人が倍には増えない、ということだ。貧しい人は半額だろうとなんだろうと買えないものは買えない。ということは、この場合、問題は再分配で片付く。
というわけで、アフリカのエイズ問題なんかの場合には、製薬会社が半額で売れるように、薬品の購入者の所得を補助してやればいい*2。しかし、介護のような労働集約的な財は、そううまくはいかない。人工呼吸器なんかはどうなんだろう。中間的だけど、呼吸器以上に吸入のための介護ニーズの方が問題だろうから、やはり違ったことを考える必要がある。とはいえ、金額ベースじゃなくて実物ベースで考えることはとても大事だとは、やはり思う。
C 生きていてもよい/よくない命の境界線
「100万円も」と言われる。だったら10万円だったらいいのか。問題が「資源の投入」にあるのであれば、軽度であれ介護を必要とする人は皆死ね、という話になる。そうではないだろう。ならば程度の問題なのか。だったらどの程度までは許されるのか。明確なことは言えない。ということは、程度の問題だと考える人はいるだろうが、少なくとも、程度の問題としては「解けない」。
D 決めなければならないのか
明確な意思表示がないまま昏睡状態に陥り、そのまま長期にわたって回復しないことがある。殺した*3方がいいのかどうか。<他者>は<他者>であって、どんなに愛していようと(どんなに憎んでいようと)<他>なるものでしかない。それ以外にどんな言い方があると言うのか。だったら「決めない」としか言いようがないのであり、「決めない」とは、その存在が生きている在り様を、そのままに支えることを意味するのじゃないか。支えられなくなったら、そのまま死の方へ転げ落ちていくわけだが、支えられる間は支えればいいし、支えられなくなったら*4諦めるしかない。それだけのことだと言ってしまってはならないのか。
E 支えられなくなったら
支えられなくなるとは、誰が支えられなくなるのか。ある具体的な個人であるべきではないし、その必然性はない。ある人の家族というような人たちが特別に支える責務を負っているわけではない。支えられなくなったら、とは、「社会が」支えられなくなったら、でしかない。医学的に治療できない病気で死んでしまうことはどうしようもない。しかし、医学的に可能な治療が提供できないことが経済的な問題であるならば、それは「私たちの社会はどこかでヘマをしている」ことの証左であり、解はやはりある。物理的に不可能なわけではないあらゆることは、可能なことであるとの前提で考えられていい。