モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

antiECO氏へレス

はひふへほ - antiECOがいるところ
について。


(1)最初の携帯電話関係の話
日本の若者の場合、10代後半で学校に通ってなければ、とりあえず遊ぶ金のためのバイトくらいはするでしょう。携帯電話の維持も基本的にはそれで十分です。それは決して十分な賃金だとは思われていないでしょうし、仕事の経験として蓄積されるようなものではありませんが、当座のその程度のお金はあります。だから、少なくとも日本において、携帯電話やパソコンがあるだけで貧困層ではない、という言い方はまったく当てはまりません。
フランスがどういう状況か知りませんが、10代後半の若者が、携帯電話一台自由にできない経済状況にあるならば、(1−1)それは貧困層と呼ぶに十分値する、あるいは(1−2)携帯電話の費用が日本とは比較にならないくらい高いか、(1−3)あるいは他の理由か、それらのいずれかでしょう。とりわけ、日雇いや単純作業の労働がまったく存在せず、彼らはその程度のお金も自由にできない状況であるならば、それはまさに暴動の直接の原因のように僕には見えます。
以上のことは的外れの可能性はあります。追加的な情報によって撤回される可能性はあります。しかし、antiECOさんやそのご紹介のエントリを読む限りでは今のところ撤回されるべきではない仮説である、と繰返し申し上げておきます。

「「パソコンや携帯を持つ若者は貧困層なのか?」ではなく、「(携帯などで連絡を取りながら暴動を起こしている)彼らを貧困層と呼べるのか?」」とおっしゃいますが、僕にはこの区別がつきません。暴動に参加すると、貧困かどうかを評価する基準があがるのでしょうか?腑に落ちません。

ついでに言えば、いわゆる第三世界の「貧困」イメージとは違う、というのはよく分かるし、そのレベルで引っかかってる人もいないだろうと思っていたわけですが、一応ここでも明示的に述べておきます。たとえば、日本で、少しバイトして携帯電話やパソコンを所有し、フリーターをしているような若者について考えるならば、それは「相対的」に貧困な層であり、そのような意味で「貧困層」と呼ぶことはおかしいことではありません。ただし、ここに見られる社会的格差は単純に所得格差として現れるよりも、「将来の希望」における格差である、とする視点は日本では既にあって、そのように指摘もされています(希望格差社会、という言葉もあります)。ですから、「貧困層」ではない、別の呼び方をしても構いません。しかし、どのような呼び方をするのであれ、そこには明確に構造的な問題がある、ということを意味する呼び名になるでしょう。であるならば、すくなくとも若者の自己責任的な言説が成り立つ余地はいずれにせよありませんから、antiECOさんへの批判の多くがそのまま維持されうると思います。


(2)人に歴史あり
「「人に歴史あり」は、その人の人生そのものを指しています。」などというのは僕は最初からその意味で述べています。だから、この節で書かれていることは、僕への批判にはなっていません。
「差別というものは移民かどうかという物差しだけでは計れないセンシティブな問題である」というのは、そんなの当たり前の話なんですが、分かっていただけていないので、2点補足しましょう。(2−1)個人の素質やその人の過去の振る舞いなどが原因で、個人の問題として就職に不利に働くようなことはあるでしょう。しかし、「そうした傾向が特に移民やその子弟に多く見られる、あるいは移民やその子弟に対する使用者に多く見られる」のであれば、それは既に構造問題ですから、差別問題として認知されるべき理由になります。(2−2)差別問題において、移民ファクターは要因の一部でしかないのは当たり前です。しかし、antiECOさんは「問題の一部として扱う」ことではなく、「それを問題ではないこと」を主張されているようにしか見えません。そのズレをこそ問題にしています。


(3)差別がない
「「差別がない」と言っている人は誰かを聞いているのですよ?」とおっしゃいますが、まだ通じないのか、と困惑しています。僕が紹介しているま・ここっとさんのエントリに関して要約すれば、次のようになります。
「移民の名前が変わらない限り、就職で差別を受けることはある。しかし、名前は変えることはできるのだから、変えれば差別を受けず、回避不可能な差別はないのだから実質的に差別はない」
要約が不適切ならおっしゃってください。で、ここでのま・ここっとさんの主張は「差別はあるが問題はない」なのか「(実質的な)差別はない」なのかは、差別の定義によります。どちらか知りませんが、どちらでもよいです。言ってる意味は同じように批判されるべき対象ですから。

ついでに聞きますが、ここまで強弁されるということは、ここでのま・ここっとさんの主張、「差別はあるが「名前変えれば」回避可能であるから問題なし」という見解に賛成しておられると理解していいのですよね?


(4)移民に差別
「mojimojiさんはなぜかわかりませんが、今回に限り、「移民」という言葉をはずして私のコメントにレスしています」とおっしゃるのは、深読み不用です。文脈上明らかだから書いてないだけです。つまり、ここで問題にしているのは、一貫して移民への差別に関してです。
「ここでも強調しますが、差別のまったくない環境というものを私は知りません。人に歴史あり、その人の人生における対人接触の経験からそれぞれいろいろな考え方があると思います。」ということで何が言いたいのか分からなかったのですが、もしや、「差別というのは、接触したことのない人が思い込みだけである属性を持つ人を毛嫌いする」という現象として捉えているのでしょうか?そうだとしたら、それは差別現象を捕まえるには(恣意的といっていいほど)狭すぎると思います。たとえば、ある人が移民系の若者に粗暴な態度を取られた経験があり、それをきっかけに「移民系の人全般を毛嫌いするようになった」とすれば、それは差別の萌芽でしょう。現実に接触の経験をもった人においても、その経験を、属性を共にする人たち一般の問題にすり替え始めたら、それは差別への道を歩み始めていることになります。それがいかに同情すべきことだとしても、です。
同じようなことが、多くの人に見られ、結果として移民系の若者に対して就職のときに拒否されるような事例が多数あるのであれば、それは既に差別構造と呼ぶべきものですよ、ということです。

それと、とても気になるのは、事あるごとに繰り返される「ここでも強調しますが、差別のまったくない環境というものを私は知りません」といった発言です。そりゃそうですよ。僕も知りません。しかし、そんなこと言うんだったら、「暴動のまったく起こりえない環境というものも私は知りません」というべきじゃないでしょうか。差別は仕方ないが暴動はケシカランではおかしいでしょう。決定論を持ち出すなら、徹頭徹尾持ち出してください。
悪魔の証明については、もう、なんだかなぁ、という感じです。そんな証明要求してませんが。


(5)最後の言葉
「間接的な書き方をすると伝わらないようなので敢えてストレートに書きますが、背景の問題について語る前に、今回暴動を起こした若者を実際にその目にし、その生活を知り、そして会話をしてみれば?ということです」ということですが、「フランスにいない奴は黙れ」以上の何も述べていないですよね。

実は、元々そのようにするつもりでした。mushimoriさんの「異論がある」というコメントを読んで、ふむふむと探し始めて、antiECOさんのエントリやま・ここっとさんのエントリを見つけて、それで納得できればそれを紹介して僕の元のエントリを撤回する旨書くつもりでした。しかし、読ませていただいたところ、antiECOさんやま・ここっとさんのエントリは、僕の疑念を深めるものであったので、それらのエントリについて足りないと思われる点を批判しています。少なくとも僕は、フランスの若者のことを直接的に語ってはいません。というより、自分が見ていないことや見にいけないことを自覚しているから、僕は「皆さんの書かれたエントリについて」書いているのであり、フランスの若者については書いていません。その上で、「ならず者」イメージを受け容れるには材料が少なすぎます、ということを述べているに過ぎません。

で、読めば読むほど疑念がわきます。実際にその地に住んでいることが即ち認識論的なアドバンテージを意味するとは限りません。その地のマジョリティに近いところで生活することによって、同じ差別的な視線を共有しているだけ、ということがあります。ま・ここっとさんのエントリの多くには、そのようなものを感じます。<名前を変えるならば実質的な差別はない>、<名前を変えるくらいのことは大した問題ではない>という話。名前を変えることはたいしたことではないとしても、「名前を変えさせる」ことがたいしたことなのは、僕としては当たり前の話です。日本でも朝鮮半島での創氏改名を持ち出すまでもまく、たとえば名前を日本風にしなければ帰化申請が認められないというようなことがありました。これは明白に差別の問題だと認識され、対処が求められていた問題です(90年代に改善されました)。ですから、名前の変更レベルの問題を軽く見る感覚を持つ人が差別に関して何か鋭い洞察を示せるとも思いません(実際示されていないと思います)。
さらに、antiECOさんも、<ゲットーがない社会はありえない>みたいなことをおっしゃってましたよね。そして今回も、「差別のまったくない環境というものを私は知りません」ともおっしゃってます。繰返しになりますが、だったら「差別を受ける人々の暴動をはじめとする対抗暴力のない環境も知らない」というべきです。こういうところに、構造的暴力に加担しながら、暴動のような明示的暴力「だけを」問題視する、これまた様々な社会でマジョリティが無意識にもつ目線(端的に言ってダブルスタンダード)を共有しているようにしか見えないわけです。
フランスに住む人の貴重な報告として尊重されることを期待するのは分かりますが(そして、いろんな意味で実際貴重な報告だと思いますが)、すくなくとも、antiECOさんのエントリの内容では僕は納得はいかないし、納得のいかない理由をこのように示すこともできます。


(6)そして、余談
自分の語ることを余談だ(本筋から離れている)というのは、antiECOさんの側から行っている既定であり、僕が従う必要はない、ということを申し上げておきます。たとえば誰かが「余談だけど、朝鮮人ってムカつくよね」と発言するならば、僕はある意味、その人の発言の中でもっとも重要な発言としてそれを取り上げ、その「余談」を「決して本筋をはなれた話ではない」として、問題にし続けるでしょう。「空気読め」で何事かを行おうとする精神を、僕はことのほか軽蔑します。

さらには、「野暮ではない」ために説明はしないという体裁の取り繕い方は僕にはみっともなく見えますが、それは人それぞれですからいいでしょう。とりあえず、その文をそこに引用されている意味が、僕には分かりません。
分かりませんだけではアレなので、分からないなりに感じることを一応述べます。そこに書かれているようなならず者の若者を見る機会は時々あります。接触することもあります。日本で、ですが。「このクズが」と思うことは多々ありますが、それでも、彼らがクズと言われるような存在にした構造を考えます。もちろん、彼ら個々人を相手にするときは、彼らが主体的に自分を変える可能性も含めて、彼らが主体としてなすべきことについて意見するでしょう。しかし、彼らにアプローチする戦略を検討する段階では、決して主体であると想定しません。
主体として扱うことと主体とみなして彼らを被決定項とする視点を忘れることは区別されるべきです。antiECOさんの記述全体において、この区別が忘れ去られているし、その余談2と題されたパラグラフにおいてもそうだと、強く感じます。だからいちいち咎めているわけです。