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説明なき民意なんかに価値はない

これは小泉派にも反小泉派にも言えることなのだが、「民意」というものの位置づけにやたらとブレがある。信念にしたがって郵政民営化法案に反対したはずの自民党参議院議員たちが、「民意に従う」などとほざいて賛成に回ることを明言している。野田聖子も転んだ。他方、負けた野党の側にも「民意だからしょーがない」みたいな話もある。小泉なんかは、前は「民意も間違うことがある」とゆーてたにも関わらず、今になって民意に従えみたいな圧力を参議院にかけているわけだ。訳が分からない。さらに言うと、次のような構図の議論もある。「選挙前は「投票いけ」みたいな話で、投票にいきさえすれば政権交代になるはずだと期待したのに、いざ投票率があがったら予想外に小泉支持で、選挙後にいきなり投票にいった人への批判がこぼれだした」という指摘もある。もっともな批判だ。しかし、一応ゆーとくが、僕には当てはまらん。

僕は「民意だから」という理由で何かが正当化されると信じたことはない。民意が民意であるという理由だけで正しさが保証されるわけではない。正しい意見とは、沢山の人が賛成する意見のことではない。そのことを考えよう。


たとえば、障害者福祉の政策として何が正しいかは、多数決で決まることではない。政策Aと政策Bがあるとして、政策Aにおいて多くの障害者の生活が立ち行かなくなるのだとすれば、そしてBではそのようなことが起こらないのだとすれば、明らかに正しい政策はBである。ほとんどすべての人がAを正しいと主張したとしても、明らかに正しいのはBである。

障害者の人々が必要とする支援がどのようなものであるか、それは彼らの身体的、精神的、知的条件に依存して決まる。経験的に知ることのできる事柄である。とある精神障害者が、ある程度の頻度で心的な不安定状態に陥り、そうならないように継続的に支援が必要であるならば、彼らからそうした支援を奪うことが何をもたらすかは明白である。これは経験科学的に考えることのできる話であり、彼らに生きる権利があることを認めさえすれば、それ以上は価値観の問題はまったく関与しない。政策として正しいのは、精神障害者が一定水準以上の医療的支援(に加えて、彼らの状況を実証的に把握した上で必要であると想定される各種支援)が提供される政策が正しいのである。「精神障害者が生きていくことが可能でなければならない」との命題にコミットするならば、正しい政策というのは、一意ではないにせよ、決まる。少なくとも、明らかに間違っている政策を数多く否定することはかなりの程度可能である。だからこそ、説明が必要なのである。実施される政策の中で、誰がどのような状況で生きることができるのか、それを具体的に説明することが必要なのである。

ついでに、先の政策A、Bの話。政策Aを支持する人たちがなすべきことを考える。彼らがなすべきことは、その政策Aが実現した社会の中で、障害を持つ人々がどのように生きていくことができるのか、示された具体的事実と辻褄があうように説明することである。そして、そのような説明を試みるならば、政策Aの中で人々が生きられないことが明らかになるのであって、政策Aを支持すべき理由がないことは明らかになるだろう。そして、人は意見を変えるのである。もちろん、違う可能性もある。政策Aの中で、ちゃんと人が生きていけることが示されるかもしれない。そうなるならば、最初はBを支持した人も説得されて意見を変えるかもしれない。しかし大事なことは、人が意見を変えるとき、あるいは変えないで維持するとき、その意見を支える説明を持っていることである。


もちろん、これほど単純には話は進まないだろう。「人が生きられる条件」というものをどのように認めるかについては、そうした問題への切実さや理解度の違いによって感じ方はまちまちになるだろう。しかし、その場合でも、問題にコミットし続け、当事者の置かれた状況を実証的に把握しようという意思がある限り、見解は収斂していくのである。四肢が動かせない重度障害者が、介助なしで食事ができたり入浴できたりするんだと信じる人はいないだろう。そのような重度障害者の人の生活を一度でも知るならば、そこに必要なものの幾つかについては、誰でもがわかるのである。多少のズレは生じうる。しかし、人々が説明を求めるならば、あるいは自分の主張の説明を与えようとするなら、間違いがあればうまく説明できないことによってそれが明らかになるのであって、だからこそ私たちの社会はよりよくなる可能性を持つのである。説明を求めないならば、私たちはいつまでたっても間違いを発見できず、同じ間違いを繰り返したり、変える必要のないものを壊したりするだろう。だから、自ら説明を与えること、相手に説明を求めること、説明をしないものを信用しないこと、こうした説明を重視する基本的態度が重要なのである。

民主制がなぜ良いのか。それは、その社会で力を得るためには、すべての人が説明を受ける権利を得られるからである。独裁制においては、説明の必要がない。その点が最大の違いなのである。言い換えれば、人々が自発的に、説明を求める権利を放棄するとき、民主主義は死ぬのである。


ところで、小泉は選挙戦の間に、何か一つでも説明らしきものを口にしただろうか。僕は一つも聞いた覚えがないのだが。彼のそのような態度は、彼が信頼に足りない政治家であることの明白な証拠だと僕は考える。小難しい政策の中身について理解できなくとも、彼が語る言葉を熱心に聴いた支持者であるならば、そこに説明らしきものが何も含まれていないことは分かるはずだ。彼は一度たりとも、説明によって人を説得しようとしたことはない。これからもないだろう。このような政治家を拍手喝采で迎えるという事態は何を意味するのだろうか。それを民主主義の死ではないといいたいなら、ぜひともそれを説明して欲しいのである。*1


追記(1:20):ちょうど、世に倦む日々さんのところで「小泉劇場は続く − 次に抵抗勢力として粛清されるのは麻生太郎」という記事が出ている。説明不在の政治と劇場型政治は表裏一体である。

*1:ついでに言うと、民主党の候補者は、一応説明する姿勢を見せてはいたが、前面に掲げた売り言葉が「政権交代の必要性」であったのですべてが台無し。どちらにせよ負けただろうけどね。