モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

コイズミ的とは何か・それは白紙委任状の要求である

昨日のエントリを書いていて実感したのだが、小泉の発言が持っている本質的な不誠実さというのは、単に感覚的なものではなく、実に論理的な性質を持っており、かつ巧妙なレトリックによって隠蔽されている。

反証不可能性

昨日、このように書いた。

それにしても、それ以上に問題なのは、「痛みを求める」ことが反証不可能な政策だということである。景気回復すれば「十分痛みを我慢したから好転したのだ」、回復しなければ「まだまだ痛みが必要なのだ」、結果がどちらに転んでも、それは想定の範囲内であるから、政権は何の責任も取る必要はない。これほど経済が悪くて首相の責任が問われないというのは、それが最初からそういう性質の公約だからである。彼は国民に何も約束していない。だから、何に対しても責任を取る必要がない。「痛みを我慢せよ」というのは、「白紙委任状をよこせ」ということなのである。ところで、国民に白紙委任状を要求する指導者ってのを何ていうんだろうね?

公約とは、未来を約束することである。将来起こりえる可能な社会がいくつもあるとする。それらの「可能社会」の集合に対して、「起こりえる未来」と「起こりえない未来」を分割して提示すること、これが未来を約束することである。「起こりえない未来」を提示するからこそ、それが起こったときに、公約違反として責任を問うことができる。それに対して小泉の言う「痛みに耐えろ」とは、あらゆる未来を「起こりえる未来」とし、何を引き起こさないようにするのかまったく約束をしないのである。

もちろん、単に「何も約束しない」だけでは誰もそんな主張に耳を貸さない。だから、その本質を隠蔽するべく様々にデコレートされている。まず、経済の好転を約束する。ただし、遠い将来に。実効的ではない未来について約束することで、政権の責任としてなすべきことを何も約束していないという事実を隠蔽するのである。

自己犠牲の顕彰、その反転としての非国民という名指し

さらに、「痛みに耐えろ」とは、実に巧妙なレトリックである。真面目で清廉な人ほど、このレトリックに引っかかる。果実を得るためには、そのために何かを支払う必要があるのである。自分のなすべきことをしてから、自分の取り分を主張しましょう。こういう実に真面目な勤労者倫理のようなものを、まったく的外れな方向へと動員するためのレトリックが「痛みに耐えろ」なのである。

私たちが自己犠牲を顕彰されることによって命さえも投げ出しかねないことは、先の戦争における日本国民の合言葉が「お国のために」であったことを想起すればすぐに分かる。「痛みに耐えろ」とは、またしても繰り返されたレトリック、国家が国民に対して犠牲を要求するレトリックなのである。私たちは、その自己犠牲に与えられた表象に酔う。そして、嬉々として「痛みに耐える」のである。そして、当然、痛みに耐えることよりこの生活をどうにかしろ、と要求する者たちは、「自分のことしか考えない奴」と表彰されることになる。既得権にしがみつく抵抗勢力だと名指しされることになる。「非国民」なのである。

戦死の顕彰と非国民という名指しが戦争の内実を疑問視することを許さなかったように、痛みに耐えることの顕彰と抵抗勢力というい名指しが構造改革の内実を疑問視することを許さないようになっている。このように考えると、私たちが今まさに、どのような危機の中にいるのかが実によく分かる。

だいたいにおいて、国家が国民に責任を求めることは、その分だけ政府が責任解除されることと同値である。ならば、政府の中枢から「自己責任」論が垂れ流されるということが、一体何を意味するのかは明らかである。それもまた、「白紙委任状をよこせ」という本音を隠蔽しつつ要求するレトリックなのである。


まとめ

反証不可能な公約、それを隠蔽するためのレトリック、結果として白紙委任状を手にした政権が出来上がる。彼らがなすことは、その結果責任をまったく問われない。橋本政権が財政引締めのあおりで景気後退をもたらしてあっさり退陣する羽目になった10年前を考えると、小泉政権下の4年にわたる停滞の責任が一切問われないという現状は異常である。

今回私たちはどのような選択をするのだろうか。欠陥だらけでも一応は反証可能な政策を公約している政党を選ぶのか。あるいは、またしてもだまくらかされて「白紙委任状」を渡してしまうのか。

追記(23:44)

そういや「自民党をぶっこわす」なんてスローガンもあったな。