モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

無限のコミットメント/無限の自助努力

 mojimojiさんへのお答え2@bewaad.com
 http://bewaad.com/20050208.html#p02


 いくつかお答えしておきたいことがありますので。
 (2005/02/19追記 分かりやすいように幾つか小見出しをつけました。)

正義の不完全性と部分順序 ── 部分順序で十分ではないか

「正義」が何かとは一義的に確定しません。mojimojiさんは「かけがえのないもの」「生存権」「人の存在の基礎」といった言い方をされていますが、では生きてさえいられれば「正義」かといえば、当然そうではなくて「人間らしい」といったものとなるでしょう。しかし、「人間らしい」なんてものは、ある程度の客観化は可能かもしれませんが、究極的には主観的認識によらざるを得ません。極端な例を出せば、「私は従軍慰安婦と言われる人々に責任を負うなどと言われるのが苦痛でならない。そんな価値観の押しつけは自分の人間性の否定としか受け止められない」という人がいたとして、その人の「人間らしい生き方」を保証することは、mojimojiさんの「正義」ではないと思いますが、これを「正義」でないとするためには、「かけがえのないもの」「生存権」「人の存在の基礎」とは別の基準を持ち出してくる必要があります。

 「正義」を一義的に確定させる必要はない。僕が「最小限の」とわざわざ言っているように、正義の「範囲」をある程度絞り込むことは可能だろう。正義のものさしは、実用的な程度に順序を測ることができればいいし、測ることが難しい場面があるとしても、別の場面で測定可能な場面があるなら無意味ではない。正義についての異なる見解がたくさん存在することを指摘する批判は非常に多くあるけれど、大抵は問題を必要以上に難しいものとして定式化しているだけではないのか。

 たとえば、実際に、私とbewaadさんの間に、t.ikawaさんとの間に、どのような合意ができるのか、作って見ればいい。bewaadさんやt.ikawaさんは、僕の言うような2つの原理を否定するような正義を実際に信じているのか。主張するのか。「人の範囲や、人として生きられるという状態の範囲」を確定するのが難しい、と言う。しかし、たとえば僕とおおやさんの間で合意されるとき、僕とおおやさんが互いに相手を人間だということをみなせばいい。他の人については、他の人と実際に対面するときに決めればいい。その上で、おおやさんは私を人間の範囲に含めていいかわからない、と言うだろうか?bewaadさんやt.ikawaさんはそのように言うのだろうか?また、どのような範囲のことを保障すればいいのか、その範囲が確定しないと言う。もちろん、その範囲は確定しない。しかし、たとえば私が食べるものもないなら、住む場所もないなら、そんな状態なら、それでも足りていないかどうか分からないのか。

 具体的な個人に対して具体的な案件について考えるとき、私たちは判断を下しうる。脳性マヒの重度身体障害者にとっての介護保障、ホームレスにとっての暖かい食事と再起のための手助け、そうした個々の事について判断を下しうる。そして、そのときにどのような判断を下すにせよ、それが私たちと相手の間で合意されうる、提案された正義の輪郭となる。相手はそれを受け入れるだろうか。正義は、具体的現実の中で、一つ一つの判断の積み重ねとして作りだされる。僕が言う最小限の正義に反対する自由は誰にもあるけれど、反対される可能性に言及するだけでは批判にも何にもなっていない。反対した結果、自分と相手の間には合意される正義が存在せず、そこで暴力が行使されることを否定できない。それを受け入れる覚悟があってのことなのか。bewaadさんが実際に、そうした最小限の正義をみたさないような正義をbewaadにとっての正義として主張するのか。t.ikawaさんはそのような最小限の正義を否定した正義を主張するのか。合意の難しさを言う人は、自分がその合意の中で、合意に参加する一人の存在であることを、都合よく忘れ去っているのはなぜなのか。

 第二に、bewaad氏の言うような「極端な例」の人物が実際に出てきた場合。その極端な人物に、その要求を「相互に」承認するような形で要求するように求めます。それが実際に可能なのでしょうか?被害にあったと主張する人がいるならば、その主張を信じないまでも、その主張の真偽を確かめるために必要な措置にさえ反対する理由はどこをどう捜しても見つからないと思いますが。そもそも、相互性を踏まえながらそのような極端な要求が可能だとするならば、実際にそのような主張がどのようになされうるのか示さなければ、反論することすらできないではないですか。ここでもまた、「そういう主張をする人がいるかもしれない」という、可能性の議論の曖昧さの中に逃げ込んでいるようにしか見えない。

仮に「正義」が何か確定したとして、現実の事象がその「正義」の基準に照らしてどう判断されるかには、これも人間としての限界があります。mojimojiさんも、人の存在の基礎を欠いているというクレームがあり、それが真実ならば、それを担って何とかするのは私たちの責任である、ということくらいは認めておかねばならんだろうと思っていますとおっしゃっていますが、「それが真実」であるかどうかをホモサピエンスが間違いなく判断することは不可能であると断言できます。

 既に述べたように、ここには問題を殊更に難しいものとして設定し、答えを出せないと述べる、ある種の倒錯がある。私たちは具体的な問題の一つ一つに、様々な分野の知恵を借りながら実際に答えを出していけばいい。最初から万能のものさしを作る必要はないのだから。

無限のコミットメントの拒否は無限の自助努力の要求を意味する

仮に「正義」が何か確定し、ある現実の事象がその「正義」の基準に照らして対応が求められることが確定したとしても、実際に各人にその対応を強制することはできません。どう少なく見積もっても、世界中に差別や貧困、暴力等に苦しめられている人々は10億を超える数で存在すると思いますが、それら全てについて「正義」の実現を図ろうとするなら、各人は自分の生存のために必要最小限の行為に費やすものを除いて、残る時間とエネルギーとコストのすべてを「正義」の実現に捧げなければいけなくなってしまうでしょう。現にそうした人生を送られている方々を尊敬するにやぶさかではありませんが、そうした生き方が可能な人々は限られているはずです。

 まず確認しておくべきことは、第三者による無限のコミットメントが不可能だとおっしゃるのであれば、本人による無限の自助努力もまた不可能だということを踏まえておかねばならないということ。だとすれば、私たちが無限のコミットメントを拒否するならば、無限の自助努力を求める根拠もまた存在しませんし、そのとき、無限の自助努力の代わりになされるテロリズムを非難する論理は根拠を失うということでもある。私たちが、私たちにとって最愛の人をそうした行為によって失うという経験をしても、それは不運であり不正ではないという論理的事実を受け入れることになる。それでもよい、とおっしゃるなら言うべきことは何もないけれども、僕はそれは嫌なので、まずは無限のコミットメントを認める方を選ぶ。*1

 次に確認しておくべきことは、無限のコミットメントを「誰が」するのか、というところの曖昧さだ。我々が、現状の人々のコミットメントを前提にして、残された問題について求められているコミットメントを集計するならば、それは厖大なものになる。かつ、それを自分ひとりでは背負いきれないことは明白だ。・・・というときに、だからコミットメントは不可能だ、というのだろうか?当たり前のことだけれども、コミットメントは誰がやってもいい。僕でもいい、bewaadさんでもいい、他の誰でもいい。無限のコミットメント要求を前にして僕らがなすべきはまず、できる範囲でのコミットメントだろうけども、では、残りは「誰かやれよ」と言えばいいのじゃないのか?僕らの周りには、そう大層なコミットメントを果たしていない人たちが山ほど残っているはずで、そういう人たちに、コミットメントするように要求すればいいのじゃないのか。
 コミットメントの要求は、すべての人が求められている。しかし、この求めは、どういうわけか、「一人では」背負いきれないことを理由にして拒否される。みんなで背負えばいいじゃないか。背負わない人がいるのはよく知っている。一応公共経済学者だから。そのときに、背負わない人に向かって「背負え」ということ、まずは単純にそうやって呼びかけること、それをしない理由はなんだろうか。いずれにせよ、我々には二つの選択肢がある。「私はもうこれ以上コミットできない」と問題を抱えている本人に向かって告げるのか、「おまえはまだコミットできるだろう」と他の第三者に向かって語りかけるのか。後者を選ぶべきではない理由などないし、まず先にやるべきは断然後者の選択肢だ。

 もう一つ確認しておくべきことは、「現にそうした人生を送られている方々を尊敬するにやぶさかではありませんが」とおっしゃるなら、ちゃんと尊敬してください。もとより、本当に尊敬する気があるのであれば、女性国際戦犯法廷に対する今までのような物の言い方はなかったでしょう。仮にその試みが試みとして失敗であるとしても、彼らがこれまで証言する被害者によりそい、その声を聞き取り、出版という形を含めあらゆる面でエンパワーしてきたという事実に対する尊敬がまずあったはず。尊敬どころか「4800円は高い、正義のマーケティングとしてどうか」というセコい批判さえあったことは思い出されていい。「尊敬するにやぶさかではない」とbewaadさんが言うとき、ここでまたしても、「尊敬すべき人であるかどうかを示す責任は相手にある」という前提条件が隠れているのではないのか。一体尊敬する気があるのか、ないのか。

 仮に人類がもっと豊かになり、上記のような献身的対応がなくとも「正義」の実現が図られるようになったとしても、状況の変化に応じて日々刻々新たに「正義」が実現されていない状態は生じるでしょう。mojimojiさんがおっしゃるように、私たちはそれらの運動に敵対するか、さもなければコミットする責任を負うか、そのいずれかであり、中立・何もしないという選択はありえない、ということですから、無知故の放置は事実上の「敵対」に他なりません。だからといって、一日中ネットにアクセスし続けサーチエンジンで新たな「正義」を欠いた状態を探し続けることなど不可能ですし、それをしたところで、サーチエンジンにひっかかったその状態を見つけて「コミットする責任を負う」までは「敵対」しているのです。この世のすべての人間にとって、「敵対」しているかどうかは多寡の問題であって、真偽のいずれかに分かたれるブーリアンな問題ではないのです(「敵対している」という状態について偽と判定される人間はこの世にはいません)。

 敵対しているということを、事実として認めればよいのではないか。無知である以上、何かができるわけでもないし、24時間社会問題を捜してうろつきまわれ、などとは「僕は」言わない。しかし、本当に切迫している人たちが要求することはそういうことであるということは事実だろうし、それにこたえなければ、私たちの間に正義は存在しないということをまず認めておくべきだろう。

 その上で、私たちは限られた範囲で限られたコミットをする。そのふるまいを評価して、「あなたは仲間だ」と認めてくれる人もいるだろうけども、現実に足りないのだから不満をぶつけられることもあるだろう。私たちの努力ではどうにもならないことについて、賞賛されたり不満をぶつけられたりしながら、それでも共にあることが私たちのなしうることではないのか。そして言うまでもなく、生の基盤を最初に奪われている人たちこそが、「自分の努力ではどうにもならないことによって」その存在さえもが左右されている人たちであることを確認しなければならない。

 つまり、私たちが精一杯の努力をしても、それでも足りないという事実についてどう評価するのかについては、基本的には生の条件を奪われている人たちの側がどう考えるかという問題であり、私たちは仮に足りないとしても可能な努力をそこに注ぎ込むべき理由があるということさえ、まずは確認しておけばよい(というより、それしかできない)。「「敵対している」という状態について偽と判定される人間はこの世にはいません」。その通り。そこから出発する以外に、どんなやり方が可能だと言うのだろう。

保守主義者の証明されざる前提、そして反証されている前提

他方、別の意味では「諦め」てはいなくて、つまり、どうせ完全な「正義」の実現は不可能だから何もしなくていいや、ということではなく、完全は無理かもしれないけど不完全でいいから少しでも実現しよう、そうすれば少しずつはよくなるさ、という意味では「諦め」てはいないのです。この不完全な「正義」の実現プロトコルこそが立憲民主主義的な国家の意思決定及びその執行であって、「正義」でないものを誤って「正義」と判定して害を及ぼすことを避けることを重視していますから、本来実現すべきである「正義」の取りこぼしは多いのでしょうけれど、それは先の誤判定の害よりもましであるというのが webmasterの主観的認識ですし、その主観的認識を多くの人が共有するからこそ、今のところ立憲民主政よりもベターと皆が納得する政治制度は発明されていないのだと思います(あまりによく引用されており陳腐で恐縮ですが、「民主政は、人類が実現したそれ以外の全ての政治制度を除く中で、最悪の政治制度である」というチャーチルの言葉がこうした価値観を端的に表しています)。

 「法を僭称するな」という批判が、「「正義」でないものを誤って「正義」と判定して害を及ぼすことを避けることを重視していますから、本来実現すべきである「正義」の取りこぼしは多いのでしょうけれど、それは先の誤判定の害よりもましである」という_未だ証明されていない命題を根拠としている_ものであることが確認できれば、とりあえず僕が主張したいことは通ったと理解する。

そうした(法の僭称の)「横行」を放置しておいては、プロトコルプロトコルとして機能しなくなり、不完全な「正義」すら実現できなくなってしまうと考えていますので、放置を許容するものではないという意味で、「諦め」てはいません。こうした意味においては「諦め」てはいないとしても首尾一貫性は損なわれないと思いますので、以上をもってそうすれば私たちの間の主要な論点は消滅したことの確認はできたと思うのですが、いかがでしょうか>mojimojiさん。

 構いませんが、幾つか付け加えておきます。(1)bewaadさんが言う「法の僭称」とは、単に「政府が主催していない法廷を実施すること」という程度の意味しかないということ。(2)「プロトコルプロトコルとして機能しなくなり、不完全な「正義」すら実現できなくなってしまうと考え」ることの根拠は、先ほども述べたように「未だ証明されていない前提」であるということ。

無知のヴェール?

#と書いておきながらなんですが、自分の生存権が保障されないのに他人の生存権だけを保障するようなルールが同意される、という奇怪な結論を社会契約論では引き出すことができるのでしょうか?そこに登場する人間は、どのような合理性、行動原理を仮定されているのでしょうか?という点について、以上の考え方に基づき次のようなロジックを構成することが可能ではないか、ということを最後に付け加えておきます(くどいようですが、それをmojimojiさんが受け入れるべきである、ということを主張するものでは決してありません。そういう考え方があり得る、と申し上げるのみです)。つまり、「確率論的に自分の生存権を保障してくれる可能性が高いプロトコルを、その自分に対する適用を確保するため、自分が属する集団内の全ての人に適用するということを同意することは、十分に合理的な行動である」と。

 「確率論的に」ということで無知のヴェールが利用されているのだろうけど、そのような奇怪な結論は、ロールズの正義の2原理と比べてもまったく正当化できないものです。ロールズの正義の2原理は、相当お人よしの人たちを前提とすれば、一応は無知のヴェールなしでも同意となる可能性があります。しかし、bewaad氏が言うような「確率論的に自分の生存権を保障してくれる可能性が高い」ルールに同意する可能性は、無知のヴェールがない限りありえない。

 それともう1つ。無知のヴェールというアイデア自体いけてないと思うけれども、問題はそれだけではない。私たちが実際に生きはじめるときには、無知のヴェールを剥ぎ取らなきゃいけないのだから、その時点で生存権が確保できないような状況にあたった人は、ルールなんて知ったこっちゃないと言い出す。事前において「確率論的な保障」に同意した人が、事後的に自分の生存権が確保されないことが判明した段階で契約の破棄を宣してはいけない理由がどこにあるのか?それが「契約」だから?それが答えだとしたら、それは論点先取りだ。私たちはそのような場合、実際に契約を「破る」。私たちの生存権が奪われる時、それよりも酷い懲罰はありえないから、「事後的に」ルール破りに走る可能性は十二分にある。まして、私たちが社会契約をしたというフィクションに対応する事実が存在しないのだから、なおさら。

*1:無限のコミットメント、ってのは、おおやさんの岡真里さん評の中に出てきた言葉だと記憶してるんですが、元はどこから出てきた言葉なんでしょうね?