モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

個々の事象と一般的性質の区別

個々の事象を問題にするのであれば、奴隷とその主人の間においてすら、抑圧のない理想的な関係というものはありえる。特に、その個別事例の当事者が抑圧を感じていないことは実際にある。個別のケースの1つ1つではなく、ある種の性質によってカテゴライズされる現象一般を相手にしたいならば、この点は注意しなければならない。わたしたちはどうしても現象一般についてポロッと何か言い放ってしまうことがあるけれど、その大半がなんかヤバイものを抱え込んでしまっている気がする。

奴隷制という社会の仕組みがあるとして、それが一般的に抑圧的な関係だと述べることは間違っていないだろう。にも関わらず、「抑圧的でない奴隷−主人関係が存在しない」ことを意味しない。つまり、「奴隷−主人関係が一般的に抑圧的である」とは、「すべての(個々の)奴隷−主人関係が抑圧的である」ことを意味しないってことだ。

抑圧的ではないある一組の奴隷−主人関係があるとき(抑圧的ではない関係にある一人の奴隷と一人の主人がいるとき)、彼らの関係を抑圧的でなくしているのは、彼らの両方が持っているパーソナリティによる。奴隷の側は、この主人のために働くことが心底嬉しいということはありえる。主人の側も、この奴隷を大切に扱うのかもしれない。二人がよきリーダーとパートナーの関係にあることは可能である。この二人の「現実の」関係が抑圧的であるなどとは言えない。

ならば、奴隷制を一般的に抑圧的である、と特徴付けるとき、それは一体何を(別の何を)意味しているのだろうか?少し込み入っているが、説明すれば次のようになると思う。問題が起こるのは、先の二人のパーソナリティに変化が生じたときである。この奴隷が、主人を支えることとは別の目標を見出したとき、この主人から離れて生きようとするかもしれない。しかし、この奴隷にとって、それは可能ではない。抑圧とは、つまりこれのことだ。抑圧は、現実に生起しているその事象の中に存在するとは限らない。私たちが制度一般の話として、ある制度の特徴として(たとえば)「抑圧的だ」などと述べるようなとき、相手にしているのは現実に生起している個々の事象ではない。そうではなくて、すべての事象に内在しているはずの選択肢のいくつかがあらかじめ排除されている、可能であるべき事態が可能となっていないという点において抑圧を指摘している。だから、その制度の中にいる人が、その人の気持ちの問題として抑圧を感じているかどうかは問題にしていない、と考えなければならない。

言うまでもないことのようにも思う。けれども、このことって実に広い範囲で簡単に忘れ去られているようにも思う。以上のことから次のように考える。抑圧的な制度の中で、個々の事象としては、そうではない関係を持っている人は確かにいるわけで、それはやはり祝福されるべきことだと思う。しかし、幸運な事例の存在は、その制度の正当化根拠には決してならないことを同時に言わなければならない。


上の議論で、「奴隷制」を「婚姻制度」に置き換えてもまったく同じこと、だと思う。また、買売春についての議論も、この点に注意しながら進めないといかんなぁ、と思う。