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小田実と『イーリアス』

 小田実さんが亡くなった。
 昨年の、ちょうど今頃、小田実さんの話をナマで聴く機会があった。話は飛びまくる*1、毒吐きまくる*2、とにかく面白かった。そのときの話の中で、ホメーロスの『イーリアス』を訳している、という話があって、その完結を心待ちにしていたのだけれど(まだ、読んだことはない)、どうやら未完のまま亡くなってしまったらしく、残念だ。


 なぜ、今更のように、『イーリアス』なのか。これは誰しも感じる疑問だろう*3
 その話の、すごく長い前置きでは、マーティン・バナールという人の書いた『黒いアテナ』という本の話をしていた。概略、以下のような話。──ギリシャはヨーロッパの源流みたいに言われているけど、それはまずはエジプトの植民地だった。その次にヘブライの植民地だった。そういうことをギリシャ語の語彙や考古学とかナントカの知識を動員して描いていく。つまり「黒」かった。それが19世紀になってドイツ帝国主義が「白」くした、と。そうしたつながりを無視した歴史を描いていったんだ、と。「ホメーロスは西洋文学の父である」、「ソクラテスは西洋哲学の父である」、そういうのは全部嘘だ、その頃西洋なんてただの暗い森で影も形もないじゃないか。地中海域には他にもすばらしい文明がもっと沢山あり、そういうものの中から生まれてきたものであって、(その後に続いた)西洋文明とのみ特権的に結びついたものとして位置づけるのはおかしい、と。でまぁ、日本ではギリシャ・ローマと平然とつなげて書くけれども、ギリシャとローマは全然別のもの、とりあえずそれを「切らなあかん」。ローマにつながる「白いアテネ」としてではなく、エジプトやヘブライとつながる「黒いアテナ」をきちんと見なければならない。そういう文脈で『イーリアス』を読もう。そんな話だった*4

黒いアテナ―古典文明のアフロ・アジア的ルーツ (2〔上〕)

黒いアテナ―古典文明のアフロ・アジア的ルーツ (2〔上〕)

黒いアテナ―古典文明のアフロ・アジア的ルーツ〈2〉考古学と文書にみる証拠〈下巻〉

黒いアテナ―古典文明のアフロ・アジア的ルーツ〈2〉考古学と文書にみる証拠〈下巻〉


 では、小田さんは『イーリアス』の中に何を見るのか。小田さんが話したことは、大きく二点ある。
イーリアス』に描かれたトロイア戦争というのは、トロイアの女たらしの王子がどこかの王様のお妃をさらっていって、それで戦争が始まる、という話らしいのだけれど、まぁ、しっちゃかめっちゃか。トロイア軍もトロイア軍なら、ギリシャ軍もギリシャ軍。どっちも勝てば略奪やりたい放題、どちらにも正義なんてない。最後はギリシャ軍が勝ってアガメムノンが凱旋するんだけど、戻るとアガメムノンの奥さんは不倫中で、邪魔なアガメムノンを殺害する。そんな調子の話らしい。

……これすごい話だよ。それ、戦争は正義ないってこといや応なしに示してるでしょ。それ読んでごらんなさい。そういう目で見てごらんなさい、古典を。神々しい目で見ないで。それが文学っていうもんだよ。そんなこと分からんで文学教えたらばかだよ。/正義の戦争なんかないといっぺんに分かるよ、これは。(講演録より)

 戦争に正義なんかない。これが一つ。
 さらに、この戦争に連れて行かれる兵隊たちがいろいろわあわあ言うのだそうな。将軍たちは略奪の分け前の話やらなにやら、なだめすかして、何とか連れて行こうとする。そうしないと戦争ができない。

……ただ面白いのはね、もう一つある。そこに兵隊がいるやろ。その連中が動かないと戦争できないのよ。小さな人間が動かないとね、戦争できないことが分かりますよ。……小さな人間の力、小さな人間の力っていうのが大事であるっていうことが分かるよ。これ、非常に大事だと思うんですね、小さな人間の力っていうのが。そう思って今訳してるんだよ。(講演録より)

 小さな人間の力がないと、その戦争はできない。これがもう一つ。
 何度も何度も「小さな人間の力」という言葉が繰り返される。俺はそうやって生きてきた。おまえらはどやねん。ずっとそう問いかけてきた。


 僕は『イーリアス』を読んだこともないし、その一般的な読まれ方も知らない。ただ、小田さんは『イーリアス』の根元的なメッセージがきちんと伝わっていないと考えたのは確かなようだ。上記二つのメッセージ、小田さんの人生そのもののようなメッセージ、それが『イーリアス』の中にある。ということらしい。僕らはこのメッセージを引き継げているだろうか。と自問しつつ、合掌。


【追記】
 検索してみると、小田実氏自身による記事を発見。>「アポロンの矢は大王に当たらない 兵士の犠牲強いる「大義なき戦争」」

 「彼(神官)が祈り、話したのをポイボス・アポロンが聞き、オリユムポスの頂から心底怒って降りてきた。……からだの動きにしたがって、夜のように彼は動き軍船の列から離れて陣取って、列のまっただなかに矢を射放った。……矢が襲ったのは騾馬ども、次いで足速い犬ども、さらには兵士ども、彼らを狙って、切っ先鋭い矢は飛んだ。あと屍を焼く火は絶え間なく分厚く層をなして燃え上がる」

 私が「1945年3月から8月にかけて大阪で何度も受けた米軍機による空襲のことを思い出すときにいつも想像するのは、この「イーリアス」の詩句だ。あのとき天界から天のように注がれる爆弾、焼夷弾に抗する術は地上の私たちにはなかった。そして、地上には人間が生きながら焼かれる火が燃え上がった。大阪空襲を思い出すときだけではない。アフガニスタンイラクでの空襲で煙が地上を覆う光景を見るたびに私はこの詩句を想起した。そして、今、イラクに日本の「兵士」が行くという。私が今またこの詩句を想起するのは、イラクでの米軍の戦争が、どう考えても大義のない戦争だったからだけではない。もうひとつ、アポロンの矢は大王や英雄には当たらず、犠牲になったのはいつもただの兵士だったからでもある。

 さらにもう一つ。「(戦争の)犠牲になったのはいつもただの兵士だった」。

*1:でも、トータルで考えると、ちゃんと筋が通っている。

*2:でも、どことなく暖かい。

*3:たとえば、http://d.hatena.ne.jp/k_sampo/20070718/p1 とか。

*4:小田氏自身による記事がネット上にある。>「ホメーロスとは何者か―ヨーロッパ、西洋文明の見直し―」