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読書:栗原康『現代暴力論 「あばれる力」を取り戻す』

 栗原康『現代暴力論 「あばれる力」を取り戻す』を読みました。


 たぶん、普通の人が普通に読んだら「テロリズムを礼賛する危ない人」にしか見えないと思います。実際、アナキズムの研究者である栗原氏は、研究会後の懇親会などで、そういう前提のいじわるな質問を度々されているようです。
 で、本書を読んでみると、実際ヤバイ。ヤバイ匂いがプンプンする。本人もそれを隠しもしない。僕などは、そこがまた潔いと感じてしまうのですが、引いてしまう人の方が多いのではないかと想像します。ここまでテロリストに共感的に随伴する書物は他にないと思いますので*1
 このようにとてもヤバイ雰囲気の本ですが、だからこそ、次の認識にたどり着いている点はきわめて貴重だと思いました。紆余曲折あって銀行強盗やったり爆弾投げたりして捕まった(要するに、テロリストになった)古田大次郎が獄中ノートの中で、おおむね「万人にたいする愛のため」にテロリズムをやったと述べている件について、栗原氏は次のように書いています。
……この文章をよんでおもうのは、一方でいいねということだ。なにせ、お釈迦さまみたいになっているのだから。ゼロだ、ゼロになっている。でも、そればかりじゃない。復讐じゃないとか、ひとを交換可能なものとしてあつかうのはよくないとかいっているのに、よりおおきな愛のためならば、よりおおきな大義のためならば、ちっぽけな自己犠牲なんてかまわない、他人の犠牲もかまわないといっているのだ。これはさすがにダメなんじゃないのか。ここまでくると、人間がちょっと交換可能とかそういうレベルではなくて、ぜんぶ物みたいになっているというか、だれにでもなんでもしていいことになってしまう。だから、これはもうやってしまったのだから、そうおもいこむしかなかったのかもしれないが、刺殺してしまった銀行員にたいして、おまえはどうおもうのかと問われて、古田はこうこたえている。かれはわたしとおなじなのだ、大義のために自分の命をささげたのだと。ちょっと、ちがう気がする。
 そして、この発想がこわいのは、だんだんはどめがきかなくなっていくことだ。死という犠牲をはらっているのだから、それにみあった大義をはたしていなければならない。支配者をたおし、万人を勇気づけること。それがどれだけうまくできたのか、気にしはじめたらきりがない。古田は、日増しにより強力な爆弾をつくろうとしはじめていたし、自分たちがやっていることを万人にしってもらいたいということで、どこでやれば新聞にとりあげられるのかとか、ひとの目にとまるのかとか、そういうことを考えはじめていた。鉄道、百貨店、等々。けっきょく、爆竹を鳴らすくらいにしかならなかったり、子連れの母親をみてやめてしまったりしたところがほほえましいのだが、それでもやっぱり、古田もまた「犠牲と交換のロジック」におちいっていたといえるのだとおもう。(「第五章 テロリズムのたそがれ」より)
 資本主義や国家権力に縛られ、犠牲を強要され、息苦しくさせられている私たち。そこから抜け出ようと、自由を解き放とうと決意して始めた行動が、それと引き換えに犠牲を強いていく論理に落ちていく矛盾。要するに、テロリズムでは答えになっていない。ここに至り本書は、きわめて良質なテロリズム「批判」*2の書となっていると思います。
 
 
 本書を最初からたのしくグイグイ読めた、という人は、ちょっと「暴力」に入れ込み過ぎかもしれません。上に引用した部分を含む第五章の全体を、丁寧に検討してみるのが良いと思います。逆に、「本書に違和感ばかり感じた、暴力礼賛についていけない」と感じた人は、ちょっと「暴力」を反射的に拒否してしまっている人かもしれません。そういう人には、先に、酒井隆史『暴力の哲学』(河出書房新社、2004年)を読むのが良いと思います。

暴力の哲学 (シリーズ・道徳の系譜)

暴力の哲学 (シリーズ・道徳の系譜)

 
 僕は常々「アナキストには絶対に同意しないが、良質なアナキストから学ぶべきことはたくさんある」と思っているのですが、まさしくその期待通りの本でした。
 

*1:ちなみに、ここでの「テロリスト」は「アナキスト」でもあるのだが、「アナキストに共感的に」ではなく「テロリストに共感的に」と書くのが適切だと思いました。悪い意味ではなく。

*2:この場合の「批判」とは、カントの『純粋理性批判』という場合の「批判」と同じ意味。