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モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

憲法を根本から問い直す対話 ~ 高橋哲哉&岡野八代『憲法のポリティカ』

 憲法96条改正論議や解釈改憲という暴挙に象徴されるように、為政者自身が憲法的価値をまったく尊重しない。そんな異常な時代に、哲学者・高橋哲哉と政治学者・岡野八代が「憲法」をめぐって対話する。これは読まないわけにはいかないでしょう、という企画ですね。

憲法のポリティカ―哲学者と政治学者の対話

憲法のポリティカ―哲学者と政治学者の対話

 まずは内容紹介からしておきますと、全体は三部構成で、安倍政権下の現状を批判していく第一部、そこから憲法論を深めていく第二部、そして(安倍政権批判を超えて)さまざまな思想的課題に挑む第三部、という流れになっています。
 話題は多岐にわたるのではありますが、憲法をめぐる中心的な論点として二つを拾えるかと思います。一つが9条。いま一つが天皇制。それぞれ整理してみたいと思います。

9条をめぐって

 憲法9条については、主として岡野氏が「立憲主義には現行9条こそが整合する」という立場から、かなり踏み込んだ発言をしています。岡野氏は「そもそも立憲主義、つまり個人の尊厳、あるいは個人の基本的人権を尊重するためにこそ国が存在していると宣言する憲法の下で、はたして軍隊が存続可能なのか」(p.83)と問いかけた上で、「立憲主義を突きつめていけば、国防軍の存在は矛盾を含むことになる。それに対して、現在の日本国憲法の9条は筋が通っている」(p.84)という立場を主張しています。つまり、軍隊の存在を許容している諸外国の憲法の方がおかしいのであって、憲法9条の平和主義、とりわけ第二項における「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」というあり方こそ、あるべき憲法の姿であると、言い切っているわけです。
 このような立場は、少なくとも日本国の平均的な国民の意識からすれば「非現実的」と断じられてしまうことが多く、そうした風潮に押されてか、リベラル・左派の人もあまり強調しなくなったということも、あると思います。しかし、ここはやはり考えどころです。カントの永遠平和論を引きつつの、次のようなやり取り。

高橋「人を殺したり殺されたりするために雇われることは、人間がたんなる機械や道具としてほかのものの(国家の)手で使用されることを含んでいる」から、本来駄目なのだということがあります。だから、「時に応じて」なんだけれども、常備軍はいずれ全廃すべきであるという。一人一人の個人の尊厳を前提に置くならば、戦争はできない。とりわけ
兵士として動員される人たちは殺し殺される最前線に置かれるのだから、その人たちの人権が真っ先に奪われてしまうではないかという考え方です。
岡野 私の考えもカントに近いものです。*1

 すぐさま「私だって戦争は嫌だけど、相手から攻められたら仕方ないじゃないか。備えは必要、軍隊はやっぱり必要だよ」との答えが返ってきそうです。しかし、カントも岡野氏も高橋氏も、国防軍の撤廃は「時に応じて」行なうべきことだと、認めているわけです。ここでの「仕方ない」をカントも岡野氏も高橋氏も踏まえた上で述べている、と考えるべきでしょう。だとすれば、先の応答は的外れです。
 私見では、国防軍廃絶という目標を持つことには、次のような意味があります。つまり、私たちが『時に応じて』国防軍を廃止するとの目標を定めるならば、その選択が外交政策を含むすべての政策を律する原理となるはずです。たとえば、外交政策の内の、中国に対する外交の中での、たとえば経済に関連した問題での合意形成をする必要があるならばに、そこでの日本政府の取るべき方針と態度は「私たちは『時に応じて』国防軍を廃止する」という大目標による規律を受けるわけです。
 これは、必ずしも、日本と利害対立のある相手の言うなりになることを意味しません。たとえば、まさしく「アメリカの言うなり」という現状は、憲法9条を否定するマチズモ保守主義こそがもたらしているものです。むしろ、憲法9条に依拠して国防軍廃止に歩を進める平和主義こそが、相手を尊重しつつも「自分を尊重せよ、道理を尊重せよ」と相手に迫る迫力ある外交を可能とするでしょう。
 こうして見ると、岡野氏が言う「個人の尊厳と国防軍の存在は両立するか(いや、しない)」というストレートな問いかけは、現実主義的な観点から見ても、否定しがたい強靭さを持っています。

天皇制をめぐって

 続いて、もう一つのポイント、天皇制をめぐる議論を追いかけてみましょう。天皇制の問題は、たとえば、天皇個人のリベラルな発言に拍手喝采してしまう雰囲気などに表れているように、これまた平均的な国民の意識からすれば「特に問題とは感じない」ものとして位置付けられてしまっているところがあります。
 現状を要約すると次のようになるでしょうか。最右翼には天皇崇拝があり、その次に空気のようにさりげない皇族への親近感が広範に広がり、その先はせいぜいが天皇制への無関心。このような状況の中で、天皇制批判は一方からは「不敬、けしからぬこと」として、他方からは「どうでもいいこと」として扱われ、いずれにせよ、まともに問題として取り上げられない構造があったし、今もそれが続いていると思います。まとめると、天皇制の支持派と容認派に挟まれて、反対派が何を問題にしているのかがほとんど理解されていない。そういう状況にあると思います。
 なぜ、天皇制が問題なのか。これについては、天皇制が果たしている役割を考えることが不可欠になりますが、これを高橋氏がとてもわかりやすく要約していますので、少し長くなりますが、引用しましょう。

 戦前、特に一九三〇年代、四〇年代の総力戦体制下で書かれたいろいろな本を見ると、個人主義は欧米から入ってきた日本の国柄に合わない考え方なので撲滅しなければいけない、欧米流の個人主義は欧米から入ってきた日本の国柄に合わない考え方なので撲滅しなければいけない、欧米流の個人主義に惑わされてはいけないと、今とまったく同じことが言われている。当時は、日本は一大家族主義国家ですから、「世界に冠たる国体」とは天皇を中心に家父長的な皇室があって、これこそが公だった。つまり、公(オオヤケ)というのは大きな家で、もともと皇室のことであるという話ですから。皇室を中心に天皇の赤子としての、法的に言えば臣民としての国民が一体になっている。そして、その皇室という理想的な家族像を、全国民がモデルとして家父長的な家族をつくり、それが社会の単位になっていた。村落共同体なども、今よりも強固にあった。そういう中で一人一人が自分を超える何か、イエとかムラとか国家といった単位のために滅私奉公するというのが、「世界に冠たる国体」でした。それは「お国のため」、「天皇陛下のため」に命を投げ出してもかまわないという、教育勅語の教えになっていて、その模範が靖国英霊だった。全てがそこに向かって構築されていた。そこで作られた考え方が戦後も生き続けているというのが、歴史的には一つあると思います。*2

 天皇制が作用しているのは、私たちの無意識的な感覚なので、その問題性はなかなかわかりにくいかもしれません。自分では気付きにくいというだけでなく、実際に説明されても納得しがたい、こじつけのように感じられる、そういう人も多いだろうと思います。
 しかし、これもまた考えどころです。私見では、侵略戦争責任、植民地責任にまつわるさまざまな事実を一つ一つ確認して、そうした惨禍をもたらしたところの構造がどのようなものなのかを丁寧に辿っていくとき、やはり、天皇制の問題に行き当たると、私も思います。
 人間の生命と尊厳は、本来、それ自体があらゆる人為の目的とされるべきことです。これに反して、人の生命や尊厳を、何か別のことの手段としてしまうこと、何か別の目的のために費消してしまえるようにすること、これを可能にするのが天皇を中心とする価値観、人間の価値を階層化してしまう世界観です。知らず知らずのうちに、人々をそのような方向に動員していってしまう磁力のようなもの。ゆえに、天皇制は容認できないし、これを問題化することはとても重要な課題なのです。
 とはいえ、ここでも9条に対するのと同じ注釈をつけておきましょう。以上述べたように天皇制を容認できないと、例えば私は思っていますが、これを実現するために時間をかけることはあってよい、とは思っています。これもまた、「時に応じて」進めていけばよいのです。まずはあなた自身が、天皇制と平和主義は両立するのか、天皇制と人権思想が両立するのか、そういった問題を考えて、答えを出す必要があるでしょう。そういう人が増えていけば、その先に、天皇制を廃止するまでの道筋も描けるはずです。

目標を見定めておくために

 憲法を問題にするに際して、9条と天皇制は避けて通れない論点です。にも関わらず、本来的な意味ではこれら二つの論点はスルーされてきたのではないでしょうか。既に述べたように、今の日本社会では、天皇制を批判することはかなりの困難を伴います。それに比べれば、9条は国民の広範な支持を受けているように見えますが、しかし、それが日米安保体制への依存と両立するかぎりでの支持に過ぎないことを考えるとき、9条に込められた平和主義の根幹部分は実は無視され続けてきたのではないでしょうか。
 多くの人々に語り掛け、多くの人とつながり、協力して事態を変えていこうとするとき、私たちは往々にして「多数派の現実認識に依拠しようとする」、そういう側面があります。言いたいことを言って決裂するのではなく、あくまでもつながりを保ちながらその中で事態を変えていこうとするなら、こうしたスタンスを取ることはやむを得ない状況がある。そのようなことは、運動論としてしばしば語られるし、実際、その必要性を私自身も感じるところです。しかし、迎合を迎合で終わらせずに変化の端緒とするためには、あくまでも、自分がどこに向かっているのかを曖昧にしないことが必要でしょう。
 9条にせよ天皇制批判にせよ、現状では、日本社会の中の少数派であるのみならず、この状況をおかしいと思って異を唱えている人たちの中においてすら少数派である、そのような認識に過ぎません。しかし、そういう状況だからこそ、ここに語られていることは、多くの人が真剣に検討する必要のあることだと、思いました。


 他にも、人道的介入、死刑廃止論等々、いろいろ触れてみたい論点もあるのですけども。随分と長くなりましたので、それらについては、またの機会に。

*1:p.88。

*2:pp.37-38。