モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

表現が私たちをつなげることができるのだとしたら

 僕は、常々、できるだけわかりやすく語りたいと考えているし、できるだけおもしろく語りたいとも思う。耳を傾けてほしいからだ。しかし、もちろん、わかりにくくても大事なことに、おもしろくなくても大事なことには耳を傾けてほしいと願っている。

 後者のメッセージはほとんど伝わらない。このメッセージを受け取ることは、多少の面倒くささをもたらすからだろう。気付かないのか気づきたくないのか、とにかく、この部分のメッセージはほとんど届くことがない。


 ユーモアをもって語ることは、確かに、社会を大きく変えることがある。しかし、「ユーモアをもって語られていないことに耳を傾けない態度」、ここだけは頑として変わらなかった、変えることはできなかったのではないか。思い起こしてみてほしい。この社会で語られた本当に大切なことの多くは、本当に本当に痛切な思いで語られていて、聴いているだけでつらく苦しく胸が痛むようなことではなかったか。

 あるいは、こういうことも考えたい。古臭いスローガンの連呼は見苦しいかもしれない。しかし、そのスローガンを連呼する見苦しい人が、どんな人生を歩んできたのか、考えたことが一度でもあるだろうか。大した人生ではないかもしれない。しかし、ある種の理不尽を必死で潜り抜けて生き延びてきて、そうして怒りや悲しみや希望を込めて、その人はそこで古臭いスローガンを連呼する以外の表現を知らなくて、叫んでいる。そんなことがありうると、考えたことがあるだろうか? さまざまな思いを経てその人が獲得した言葉が、そういう「貧しい」言葉でしかなかった、そんなことはいくらでもある。

 表現するなら、工夫はした方がいい。良い工夫も悪い工夫もある。それは端的に技術の問題だ。しかし、工夫のありようによって、耳を傾ける必要があるかないか、聞き手が好きに選んでいいということでは決してない。語り手は知っていて、聞き手は知らない、語る動機があるところに聞く動機はない、だから必然的に工夫するしかない、そういう構造になっている。しかし、語る動機があるところに聞く動機がないとしても、語る責任があるから語っているのではないし、聞く責任がないから聞かなくてよいのでもない。


 まったく同じことが明るくも暗くも表現できるなら、明るい表現の方がいい。そんな風に思っている人があるかもしれない。しかし、僕はこの前提を信じていない。つまり、「まったく同じことがまったく別様に表現できるはずだ」という前提を信じていない。そこにはきっとズレがある。いや、本当にズレがあるのかはわからない。しかし、「そこにはきっとズレがある」と思っていないと気付けないことはきっとある。

 まったく同じことを別様に「明るく」表現したのだとしたら、そこには零れ落ちるものがあるだろう。たとえば、「あまり明るくはないメッセージにも耳を傾けよう」というメッセージは、そこから零れ落ちている。「人々が受け入れやすい形で表現することがほとんどできない」、伝えられるべきことの中には、そんなこともいくらでもあると思う。だから、「明るいメッセージ」ばかり聞いていたら、気づけないことがきっとある。


 私たちが「わかりやすい」「おもしろい」「明るい」表現を追求するとしたら、上記したような事情にもかかわらず、そうするのである。これからも、人々に受け入れられやすい表現を、CM的手法を、マーケティングの知恵を、取り入れて取り入れて工夫に工夫を重ねて、「届け、伝われ」と祈るような気持ちで発信するだろう。しかし、その一方で、そんな工夫など一切していない(たとえば「できない」)人のメッセージに真剣に耳を傾けること、それこそが私たちに求められる倫理だったのではないかと、常に忘れないで考えている必要があるだろう。表現の工夫が、この社会の可能性を閉ざすのではなく開くためには、このことは何度でも強調される必要がある。

 おもしろみのない、ダサい、古臭い、工夫のない、品のないメッセージに、私たちがどれだけ真剣に耳を傾けることができるか。あるいは、耳の痛いメッセージに、どれだけ真剣に耳を傾けることができるか。それが私たちの社会の未来を決めるだろう。表現の工夫は、その余地を広げたり、さまざまな負荷を和らげたりすることはできても、耳を傾けることの倫理をなしですませるわけには、やはり、いかない。