モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

「わかりやすさ」について

 同じ話なら、できるだけわかりやすく話した方がいいと思うし、そのように努力することは大事だと思う。ただ、だからこそ、聞き手である人々は、わかりやすさの危険性について、もっと具体的に考えておいた方がよいと思う。


 人は、気づいていないことには、気づいていない。そのことに気づくことは、決してわかりやすいことではない。ちょっとした違和感を感じて、少し足踏みをするように考えて、ジワジワとの気づいていなかった「何か」の姿が見えてくることもあれば、あるヒラメキとともに「何か」が見えてくることもある。いずれにせよ、「気づき」と「わかりやすさ」は別のものだ。

 だから、次のことに注意する必要がある。もし、あなたが「わかりやすさ」を基準にさまざまな知識や考え方を求めているなら、あなたの気づいていないことに気づかせる「何か」に出会う可能性は、その分だけ、低くなる。


 この「何か」は、まだ気づいていない盲点にある、というだけではない。しばしば、気づくことによって不愉快な気持ちになる「何か」でもある。たとえば、私たちは知らず知らずのうちに誰かの足を踏んでいることがある。足を踏んでいることに気づくことは、「踏んでしまって痛い思いをさせて申し訳ない」というバツの悪さに気づくことでもある。

 足を踏む程度ならよい。指摘されれば簡単にわかることだから。問題なのは、「足を踏んでいる」その相手がどこか遠くにいるときだ。たとえば、私たちの政府が決定したことが、遠く地球の裏側に暮らす誰かの頭上に爆弾の雨を降らせることだったり、そうしたことへの支持や協力だったりすることは、(少なくとも日本という国に住んでいる場合には)珍しいことではない。私たちが足を踏んでいる相手は、地球の裏側に暮らす人であったり、未来や過去に生きる人であったりする。足踏みをするように少し丁寧に考えるという手順を踏まないと、自分とその人とのつながりにさえ思いが至らないことはいくらでもある。


 もう一つ問題がある。私たちが「足を踏んでいる」程度なら些細なことでもあり、些細なことだからこそ、率直に謝ることも許すことも、比較的簡単だろう。しかし、私たちのしでかしていることが大きく重たいことであればあるほど、それを認めることは愉快な話ではないし、後回しにしたり、酷い場合には気づかないフリをしたりさえする。

 つまり、わかりやすい話とは「私たちが気づきたくない何かには触れない話でもある」ということだ。一言で言えば、わかりやすさは、私たちの「自己欺瞞」を壊さないように配慮された話でもありうる。


 実際、こうした自己欺瞞をわかりやすく暴き立てたときには、「わかりやすい」と褒めてくれる人と同じかそれ以上にたくさんの人たちが非難や罵声を浴びせてくるものだ。

 別に、非難や罵声が、正しく自己欺瞞をついていることの証拠になるとは言わない。しかし、「わかりやすい」と言われるとき、一体何がどのように「わかりやすく」なっているのか、大抵の場合、それはそれほどわかりやすくはない。何かをきちんとわかるためには、足踏みするように自分で考えることをしないで済ませるわけにはいかない。最低限、そのことをわかっておく必要があるのではなかろうか。