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モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

新宿の焼身事件について

 今日、新宿駅で、安倍政権による集団的自衛権容認への動きに抗議して、男性が焼身自殺を図ったという。その後、亡くなったという話は聞いていない。とにかく命をとりとめたなら、そのことは良かった。


「焼身自殺(未遂)」という行為を、持ち上げることも貶めることもしたくない。自分もやりたいと思わないし、他の誰にも真似してほしいとも思わない。しかし、少なくとも言えること、言わなければならないことがいくつかあると思う。

 当たり前のことだが、男性が「身を焼いた」ことは、男性の主張が正しいことをまったく意味しない。関係がない。しかし、私たちは重々承知しているはずだ。安倍が進めている集団的自衛権容認への手続きは、ありとあらゆる嘘とゴマカシに満ちており、今すぐやめるべきだということを*1。つまり、男性が身を焼いた事実とは無関係に、男性の安倍政権への批判は、正しい。

 にもかかわらず、この正しさ=安倍政権の欺瞞をめぐる状況は、不条理に満ちている。安倍は振付師の言いつけどおりの答弁に終始し、聞かれた質問には答えない。国会や記者会見でのやり取りを見ていると、あまりの不条理に眩暈がする思いだ。言葉が言葉として通じない。そんな世界に私たちは生きている。私たちは、まさしく「身を焼かれるような不条理の中に」生きている。

 つまりは、彼を焼いたのは彼自身ではない。この不条理そのものを現出させている安倍その人であり、安倍政権を支えている有象無象が、彼を焼いたのである。これが「言えること」の第一である。


「身を焼くこと」、それ自体に報道すべき重要性があるのかは判断の分かれるところだろう。しかし、私たちは重々承知しているはずだ。私たちが「身を焼かれるような不条理の中に」生きており、男性の抗議の主張には少なくとも「報道すべき」と言える程度には正当性があり、メディアにはそれを伝える責任があることを。念を押しておくけれどが、「彼が身を焼いてまで訴えたから報道すべきだ」というのではない。そもそも、彼が身を焼いてまで訴えたかった主張は、彼が身を焼くまでもなく、大手のメディアで大々的に主張されていてもおかしくないことであったはずだ。これを黙殺するのであれば、メディアは、二度、彼の身を焼くのである。これが「言わねばならないこと」の第一である*2


 最後に、これは書かずに済ませようと思ったことだが、やはり、書いておくべきだろう。「集団的自衛権容認への動きに抗議して、男性が焼身自殺を図った」という知らせを聞いたとき、「死なないでくれ」と思ったことに嘘はない。しかし、「この事件を受けて、流れが変わってくれれば」との思いを抱かなかったと言えば嘘になる。我ながら「人の命をなんだと思っているのか」と思う。嫌な気分になる。

 しかし、おそらくは、身を焼いてまで訴えたその人の思いは、ここにあったはずである。自らの命をもって、流れが変わってくれれば、そう願ったのだろうと想像する。彼の主張の正しさも、取り上げるべき価値も、彼が身を焼いたこととは何の関係もない。しかし、私たちは重々承知のはずである。安倍政権集団的自衛権容認への動きはまちがっているし、断念されるべきであると。身を焼いた彼の人の主張は正しく、受け入れるべきだということを。この当たり前のことが、当たり前にならない。この不条理を止めることができなかった私たちが、彼の身を焼いたのだと、考えずにはいられない。


「誰かが身を焼いたからといって政策を変えたら、同じことをする奴が次々出てくる」などと、バカげたことを言う人がある。一体、どこに、わざわざ身を焼きたくて焼くバカがいるだろうか。「同じことをする奴が出てこない方がいい」と思うなら、不条理をなくせばいいだけの話である。「集団的自衛権容認など即刻やめるべき」ということは、本来、誰かが身を焼いたりする前にわかっているべきことだ。

 身を焼く前にわかっているべきことであるなら、せめて、身を焼いた後であっても、骨身にしみてわかっているべきだろう。「同じことをする奴が出ないように」などと命を大事にする素振りで、身を焼いたその人の思いも何もかをも踏みにじるのだろうか。それは三度彼を焼くことに他ならないのではなかろうか。

*1:具体的にどのような嘘とゴマカシであるかについては、数多指摘があるので繰り返さない。『世界2014年7月号』所収の想田和弘「喜劇のような演説が現実となるとき──安倍首相「集団的自衛権」記者会見を読み解く」に詳しく分析されているので、そちらを参照してみてほしい。

*2:わかりにくいかもしれないので念を押しておく。仮に焼身事件そのものは報道しないとしても、彼が身を焼いてまで訴えたことについて報道すべきことがあるだろう、ということ。彼が身を焼いてまで訴えたことが正しいということは、彼が身を焼くまでもなく私たちは知っていたはずだろうから。