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「価値をめぐる争い」をめぐる争い

 表現の自由に関して。しばらく前に書いた記事。>http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20100805/p1


 この話題に触れるときにしばしば強調していることだが、ヘイトスピーチの問題は規制では収まらない。これはほぼ確実に言える。ヘイトスピーチに表現される類の欲望を抱えた人間は、表現の自由があればそれを使って、それが制限されているときにはその制限の範囲内で、同じことをやろうとするだろう。これは究極的には、人間の問題なのだ。

 ただ、それでもヘイトスピーチ規制に意味がありうるのは、この社会はヘイトスピーチを投げつけられる側のカタを持つのだということが明確な形で示されるということだ。それは、これまでヘイトスピーチによって押さえつけられてきた側の発話を引き出す効果を持つだろう。そのような言論空間の再編成の中で、それぞれの認識が深められ、なにより、「ヘイトスピーチをするような連中の認識が改められる必要がある」。まぁ、それはともかくとして。


 ここで「ヘイトスピーチをするような連中の認識が改められる必要がある」という断言にいろいろ違和感を持つ向きが多いだろう。相手方の価値を「改められる必要がある」とする言明は価値の選択であるのだが、価値の問題は神々の争いであるから、決着はつかないはずだ、と考えるからだ。だから、それに触れずになんとか議論を収めようするのだろう。まさに現代的リベラルという奴である。しかし、僕の見るところでは、価値を回避することは不可能である。にもかかわらず回避しようとすることが、この種の問題をねじれさせ、解決困難にしている。

 ヘイトスピーチとは、ある具体的な他者の否定であり、その具体的な誰かと「ともに」一つの社会を構成することの否定である。ゆえに、ヘイトスピーチはまちがっている。このことはいかなる社会において当然の前提である。もちろん、あるスピーチがヘイトスピーチであることは自明ではない(であるから、規制されるべきかどうかも自明ではない)。前者は価値の問題であり、後者は認識の問題であり、それぞれ別物だ(そして、規制は派生するさまざまな効果に対する暫定的な比較衡量の問題だ)。以上の区別を踏まえて繰り返せば、あるスピーチがヘイトスピーチであるなら、そのようなスピーチはまちがっており、なされるべきではない。このことが(価値のレベルにおいて)自明であることは確認されておくべきだ。

 その上で、あるスピーチがヘイトスピーチであることはどのように知られるのか。それは困難であるが、次のように考えれば少しはマシだ。つまり、ヘイトスピーチがまちがっていることが当然の前提であるなら、「ヘイトスピーチではないのか」という批判に対する応答は「ヘイトスピーチではない」というものであるべきだ。ここで「ヘイトスピーチにも言論の自由がある」という応答を想起すれば、この応答はまったくズレていることがわかるだろう。さしあたっては、そんなことが否定されているわけではないからだ。しかし、現代的リベラルは価値の問題を回避しようとするがゆえに、このようなズレた応答をわざわざ選好する。問題をややこしくしている原因の一つは、まさにここにある。

 整理すれば、現代的リベラルにおける価値回避の動機の一つは、「ヘイトスピーチは悪い」という価値選択と「なにがヘイトスピーチであるか」についての認識の問題をごっちゃにしていることに起因する。そして、それが問題なのだ。


 さらにややこしいことに、この問題を指摘すると、大抵次のような答えが返ってくる。曰く、「私は個人的には、あのような考え方は差別的だと思っている。しかし、そのような考え方を持ち、それを表明する権利はある」。

 そんなことわざわざ確認しなくても、「そのような考え方を持つ」ことはどんな時代であろうと事実において自由であるし、かつ、現状でヘイトスピーチ規制は存在しないから表明することも自由だろう。しかし、その表明に対して「まちがっている」とする反応を返すことは、上記した議論からすれば当然のことだ。つまり、「ヘイトスピーチは悪い」かつ「あなたの表明はヘイトスピーチだ」と反応するわけだ。ここで「ヘイトスピーチは悪い」は、社会が「誰かを排除して当然」とする社会ではない以上、前提するしかないものであり、であるならば、争われるのは「あなたの表明はヘイトスピーチだ/いや違う」という論点になるだろう。ところが、(繰り返しになるが)この論点は忌避されるのである。

 ここで繰り広げられる現代的リベラルと排外主義者の分業は、本当に見事としかいいようがない。


 もう少し一般的な話として。価値について血で血を洗う闘争を繰り返してきた歴史がある。だから、価値の争いを避けようともするのだろう。というか、そういうことはしばしば表明され、僕のように価値について踏み込むことが必要だという論者は(そして自分でも実際に表明する論者は)ポルポトだのスターリンだのと指弾されることになる。

 しかし、「価値について血で血を洗う闘争を繰り返してきた」ということは、「価値について争うべきではない」ことを意味しない。第一に、価値の問題は回避できない。もう改めて説明はしない。ゆえに、第二に、価値について「血で血を洗う」のではないやり方での闘争を編み出さなければならない。そのためには、価値についてできるだけ明晰な立場表明を行い、それが価値についての議論として応答されることが必要だろう。


 ところが、現状はこうだ。価値についての立場表明を行うことは、それが他者への立場変更要求を伴うものなら、他者の内心の自由言論の自由その他を踏みにじるポルポトスターリンとして、ロクな検討もなしに廃棄される。さもなければ、他者への立場変更を要求しないものになるのだが、こういう態度表明をするのは、たいていの場合、他者に立場変更を要求する必要のない特権者であって、つまり、それは保守主義者の実質的勝利宣言に似たものになる。ハッキリと確信するけれど、価値についての争いが「血で血を洗う」ものになるのは、こういう保守主義者たちのせいだろう。

 社会主義が引き起こした多くの悲劇は、社会主義それ自体の悲劇としてのみ語られる傾向があるけれど、それだけのことであるはずがない。現実の政治闘争を勝ち抜かんとする中でマキャベリズム的に洗練されていくというプロセスなくして、社会主義のあのような醜い姿はありえない。もちろん、正義を掲げる者の独善性という問題はあるだろう。しかし、そういう問題として「のみ」語るならば、それ自体が独善的だ。

 経験的に言えば、教育水準が高いほど「価値言明は避けるべし」とする態度が一般化するように思う。それは、よく「学んだ」がゆえなのだろう。「再分配よりまずリフレ」とする発想の裏にも、おそらくは似た動機があるのだろう*1。その一方で、争わねばならない理由がある人たちは、まさに価値こそが争われるべき土俵であることを(直感的にか経験的にか)知っていて、だからこそその土俵で戦おうとするのだが、現代とはその土俵自体が否定されている時代でもある。現代は価値をめぐる争いである以上に、価値に対する態度をめぐる争いでもあるのだなぁ、とよく思う。


 さて。冒頭の。「人間が問題」とか言い出すと、問題思想の持ち主を連行して矯正するとか、表現規制をバシバシ発動して検閲しまくるとか、そういう類の想像力の豊かな(ある意味ではまったく貧困な)人がたくさんいるけれど、そんな話をしているわけでは最初からない。私たちは、制度の形式だけ整えて人間については一切不問にしたままで一緒に暮らしていく、ということはできない。現にできていない。人間と人間がぶつかりあうしかない場面はいくらでもあったし、これからもある。それを「血で血を洗う」ものにしないように、そういう知恵と仕組みを作り上げていかねばならない。そういう話をしている。

 その意味で、人間を問題にしない「表現の自由」論はまったく有害だ。ほぼ同様の理由で、人間を問題にしない「表現の自由」規制論も有害だと言えることは論をまたないだろう。価値の問題がこのようにして問われ問い返される中で、人間は変わらないときにはやっぱり変わらないけど、変わるときには本人の意志など関係なく変えてしまう。人間は人を殺すことがあるが、それを反省することもある。必ずしも、そこに本人の意志は介在しない。ただ、一つひとつの事実に直面していくことで、変わるときには変わってしまう。

 そこにかけるしかないように思えるので、つまりは、そこにかけるつもりがあるのかどうかということ。別様に言えば、価値の回避とはこうした可能性=困難からの逃避である。ゆえに、社会の未来についていかに雄弁に語っていても、そのような態度の元にある限り、それは絶望の一つの形式でしかない。だから、価値をめぐる争いから降りるわけにはいかないのである。

*1:実際、経済学者は「価値判断に踏み込まない」ということを、自己の立場として誇らしげに表明することが多々ある。第一に、価値判断に踏み込まなければ意味のあることは言えないし、第二に、「踏み込まない」と言いつつ理論的道具立てに忍び込んでいる価値判断に無自覚なだけだし、その意味で恥ずかしい表明だと思うのだが、まぁ、よく聞く話だ。