「時間厳守」はみんなのもの
http://d.hatena.ne.jp/lever_building/20091117
http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/lever_building/20091117
あまりまとめずに書く。──わざわざ説明するのも興がそがれるけれど、「「時間厳守」はみんなのもの」とは、「みんなの義務」という程度のことを言っているのではないし、「みんなが守ればみんながハッピー」などと言っているのでもない。
自立生活してる障害者の介護に入っていたのだけど、介護者が交代の時間を守らないと、あらゆる人の予定が狂う。場合によっては、命に関わる。不測の事態というのはいくらでもあるので(そして、それぞれの人のメンタルの問題も含めて、不測の事態というものを相当程度広く取ることも必要だということは認めた上で)、それに対処するためのある程度の余裕は作っていく方がよい。代わりの人が見つかりやすい体制を整えるとかは必要だ*1。その上で、「できるだけ」時間を守るという価値は大事にするべきだと考える。
時間を守る、という観念がすぐれて近代的だ、ということは、その手の歴史社会学の本を一冊も読んだことがない僕でも同意する。そもそも、時間を守る、ということ自体が、時間を正確に把握する技術*2なくして成立しえないのだから、それは当たり前のことだ。しかし、個々バラバラに違う場所で動いている人たちが時間を合わせて行動することができる、ということ自体、それは確かにスゴイことだ。それによって豊かになった面も確実にある。あえて言うが、「生産性を向上」させる。
ここで、生産性という概念を擁護しておく。「労働は義務」と書いただけで査問される世知辛い左翼業界なので、これは擁護の必要がある。──私たちは食わねばならない。住む場所、着るモノが必要だ。生きるために。かつ、生きるだけでなく、それ以上のくだらないことやくだらなくないことも含めて、生きることを支えるモノたちを求める。それを作るのが生産ということ。そして、それは、生きている人間の生きている分を支えるためには絶対に必要で、それをできるだけ面倒なく組織するという意味で「生産性」という概念はとてつもなく大事。
ついでに言うと、「労働は義務」という言葉が、誰によって誰に向かって言われるかが大事。資産持ちが資産無し(=無産者)に向かって言う「労働は義務」はくそ食らえだ。むしろ、資産持ちの労働してない人間=オマエこそが「生産」してない「無産者」だ、と言いたい。「労働は義務」とは、そういうこと。──つまり、時間厳守という観念の歴史的な相対性をいくら強調してみたところで、「時間厳守」という観念が確かに私たちの生活の豊かさと深い関わりがあるという事実を覆すものではない、ということ。
同様に、「時間厳守」が、誰によって、なんのために、主張されているか、という点に問題はある。経営者が労働者に向かって「のみ」説く「時間厳守」などくそ食らえ、というのは同意する(lever_buildingさんが引用しているRomanceさんの記事*3を参照のこと)。
もう一つ。「時間厳守」が生産性に関わる観念だということは、逆に言えば、生産性以上のものではない、ということだ。「時間厳守」を守れなかったときになされる、違反者に対する暴言その他の暴力の数々、それは直裁に言って、その違反者の人としての尊厳を深く傷つける。それは、生産性という概念の中で比較されるべきものですらない、「プライスレス」なものだ。「時間厳守」などより、そこにいるその人の尊厳の方が大事であるに決まっている。
「時間厳守」を守れない人が相手なら、守れないことの原因を共に考えるのだし、守れなくても大きな問題が生じないような補助装置を考える。守らない人が相手なら、守ることの意義をしぶとく説き続ける、ということになる。権力関係を盾にして、ののしるだけののしって、条件付けとしてのみ時間を守らせようとする態度こそ、唾棄すべきものである。そういう輩が校門圧死事件のような悲惨を引き起こすのだ。
ただし、同時に、その唾棄すべきルール原理主義者が憎いあまりに、なにもかもをいっしょくたにして廃棄しようとする反知性主義も、同様に唾棄すべきと思う。生産の現場における支配や抑圧が憎いばかりに生産そのものを廃棄したり、非市場的な生産をことさらに称揚したり、というのも同様。僕は賛成も共感もしない。
できない人のことを考えるということと、そもそもできない人もいるような技術それ自体を廃棄する、ということは別の話だ。なにをどうやっても算数ができない子もいるが、算数ができる人がいるからこそ、その子自身は算数ができなくても生きていける、という面がある。そして、算数ができない子を助ける算数ができる子が育つためには、とりあえずは全員に(できるだけ多くに)算数を教えてみる、ということが必要になる。
そもそも算数をなくせばいい、などと、どこまで本気かわからないことを言う人もいる。しかし、算数を基礎として成り立っているありとあらゆる技術があり、その技術の恩恵があってはじめて、「そもそも算数をなくせばいい」ということを考えてみたりする余裕も生まれる。算数にせよ何にせよ、それは単なる記号操作ではなく、存在するものたちに対する含意を持っている*4。だから、それを廃棄せよと言いたいならば、それによって失われるものたちについて一通りは考えてみた上で、「それもいらない」と言うのが誠実な態度だ。*5
最後に、発端の「遅刻を咎める教師」について述べておく。講義形式の授業であるならば、とりあえず、話の途中でドアが開いて人がウロチョロしている、というのは、かなり邪魔なものだ。人間遅刻してしまうこともあるのでいちいち咎めないけれども、常習者であれば注意せざるをえなくなるし、「そもそも遅刻して誰に迷惑かけてるのか」などと言い出すなら、一体何しに来ているのか、と思う。
参加型の学生同士の共同作業のような授業だと、最初の説明を聞かなかった遅刻者が作業の進行を滞らせたり、同じ説明を繰り返させたりするので、やはり迷惑。これも、人間遅刻してしまうこともあるから、進行が滞ったり同じ説明繰り返したりするくらいは別にかまわない。ただし、「遅刻すること、ちっとも悪くない」と考えているなら話は別。
授業に出席するというのは、そこでなにがしかを獲得したいという意思があり、かつ、同じ意思を持つ他の受講生がいるのであり、そこで最低限の協力的態度が求められるのは当たり前のこと。そのつもりがないなら、最初から来るな、という話。──以上は、義務教育でない場合の話。
義務教育であるならば、行きたくなくても行かされる、という面があるのでその点を考える必要がある。ただし、その場合に求められるのは、「私は学びたくない」という主張がなされることであり、かつ、教師の側から、それに対する「どうして学ぶのか」「どうして学ぶことを要求するのか」についての中身ある回答が試みられること。「ともに学ぶ」という前提がないのだから、それを主題として問うしかない。
かつ、義務教育では、全員にある水準までの内容を身につけさせることが要請されているので、教師はそのためにの努力と配慮を可能な限り*6試みる責任がある。とはいえ、全員にある水準までの内容を身につけさせる、というのは、場合によっては不可能。(おそらく先天的に)算数が極端にできない子どもというのはいて(爆笑問題の太田とかそうらしい)、そういう子にまで同じ水準の算数の力を身につけさせるべき、とは言わない。向かないことが判明した時点で、一旦終わるべき。その上で、その子がどうしてもチャレンジしたいと言うならサポートするし、より得意なこと好きなことに努力を注ぎたいと言うなら、それをサポートすればいい。
と個人的には考えるが。遅刻する子に対して、「とにかく学べ、学ぶ義務がある」「とにかくルールには従え」としか言えない教師はクソだと思う。また、できない子に対する配慮というのは、ほとんど理解されてもいないだろう。その点は批判されるべきことが山ほどある。ただし、以上の議論のどこからも、「遅刻して何が悪い」という話は出てこない。「時間厳守」そのものが廃棄されるべき、とする議論にもならない。