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モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

「知の権力」について

 「知の権力」ですか。> http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20091008/p1#c1255838841 > id:kurahitoさんのコメント
 追記:TBを受けて、末尾に。


 「知の権力」というのは、いかにも形容矛盾な感じがしますね。「知」が「知」と呼びうるものであるならば、「右」ならば「右」としか言えず、「右」とも「左」とも言える恣意性の働く余地はないからです。たとえば、「共に生きる」ならば「分ける義務」が論理必然的に出てきます。「共に生きる」と「分ける義務の否認」は、どうやっても両立しえないし、両立するとしたら、それは「知」と呼びうるものではないでしょう。


 一般に「知の権力」と呼んで批判されるのは、たとえば、「共に生きる」と「分ける義務の否認」を「知」として流通させることのできる権威であり、権威を支える制度です。重度障害者の「分配せよ」に対して「財源がない」と返す経済学者は、まさに「知の権力」をふるっているわけです。ただし、ここでこの経済学者が拠って立っている基盤は、およそ「知」と呼べるような代物ではありません。にも関わらず、それが経済学者様の権威によって正当化されている、と多くの人が感じ、沈黙し、件の重度障害者の「分配せよ」が結果として黙殺されるとき、そこに「知の権力」が作動しています。

 あるいは、「障害」に伴って生じる様々な不都合、それを解消するためには、「本人を変える」「社会を変える」両方ありうるのに、「本人を変える」方が当然の帰結であるかのように持ち出される。そうした事態が、医療や介護の専門家たちの権威によって正当化され、不問に付され、「本人を変える」モデルを当然の前提とした社会が編成されていく。そこには「知の権力」が作動していると言えるでしょう。……批判されている「知の権力」とはこのようなものです。つまり、「知の権力」とは、「知」と呼びうるものではないものが「知」と呼ばれていることに起因する問題ではないでしょうか。つまり、それは「偽‐知」の問題です。僕の知る限り。


 そして。「共に生きる」から「分ける義務」が論理必然的に出てくるとき、その事実を前に私たちは選択しなければならない。ここで「分ける」か、「共に生きない」か、選択はできます。ただし、「分けない」くせに「共に生きる」などと言い張ることは許さない。そこに選択の余地はない。このような意味で、「知」は、ある種の選択を排除します。両立しないものを両立するかのように扱う欺瞞を、排除します。

 それは、確かに、力です。お望みなら、権力と呼んでもいい。だからこそ、「知」は、「分ける」なくして生きていくことのできない最弱者のための力たりうる。それを阻む人のすべてに対抗する権力たりうる。「知」とは、まさにこのような力たるべく存在するのです。それを「知の権力」と言うならば、僕はそれを全面的に肯定する。

 と同時に。このようにして力を要求する言説の中には、「知」と呼びえない誤りが含まれている可能性があります。だったら、それを指摘してください。そのとき、そこにはらまれている力は簡単に粉砕されるでしょう。あるいは、今すぐにはその指摘はできないが、しかし、納得できない、そういうこともあるでしょう。だったら、今から考え始めて、時間をかけて答えを出してください。自分の好きな答えを選ぶのではなく、ある種の強制力として働きうるものとしての答えを。


 つーか、批判者は、僕の話がわかろうとわかるまいと、それには従うまい、と堅く心に誓うならば、そこは完全にアンタッチャブルじゃないですか。それのどこに「知の権力」が作動しているので?「無知の権力」なら、至るところに作動していると思いますが。

 ハッキリ申し上げて、kurahitoさんが言う「知の権力」は、話者の属性を引き合いに出して黙らせようとするためのラベルに過ぎません。しかし、そういうふるまいこそが、まさに「知の権力」として批判されていることそのものではないでしょうか。というように、僕は思いますけど。

追記

http://d.hatena.ne.jp/kurahito/20091020/p1
 ちなみに、「知」は、僕の方は、「ただのイデオロギーではないか」との嫌疑をかけられている言説であり、知であるかないかが判然としていないもののことです(そして、そんなの判然とするわけないでしょう)。


 元々の話の文脈に翻訳しましょうか。陵辱表現を脅威と感じる人たちの自由と、そのような表現を必要とする人たちの自由というのは、両立しません。以上の設定を前提するなら、どちらかに我慢を強いるしかないでしょう。当然、まともな神経を持つ人なら選びがたいでしょう。だから、別の道が模索される。陵辱表現を脅威と感じさせる文脈を解体すること。誰かに我慢を強いる(それは実質的な排除です)のではないならば、その他に道はないはずです*1。……その上で。

 「偽-知」と言うなら、あの文脈で主張された「表現の自由」擁護論のほとんどが「陵辱表現を脅威と感じる人たちの自由」をネグったり、小さく評価したりすることで成り立っている「偽-知」だったでしょう。

「「知」は、ある種の選択を排除します」と書かれていますが少し違いますね。「知」は、「知」であるが故にそれ以外の「非-言説」を排除します。この場合、mojimojiさんが排除に成功したとは言いませんが(そもそも論証していない)、排除を目指しているが故に「権力」が作動している(その上誤りである)と述べています。

 違いますね。「知」は確かに、「知」になりきっていない「知」以前の何かを排除する危険があります。だから、それについては最初から自覚的です。「答えが出せなくても答えを出そうとすること、答えの必要性を認めること」でも認める、僕はそのように言ってきているのです。これについても、そういうものを排除していたのは、むしろ、「表現の自由」擁護論者の方でしょう。上記したように。

 また、僕の言うこと書くことが、「偽‐知」である可能性はいつだってありますから、常に反論を期待するのだし、反論をしたいができないという場合でも、時間をかければよい、と言っているのです。ただ、「陵辱表現を脅威と感じる人たちの自由」をネグるな、勝手に小さく見積もるな、それをちゃんと視野の中心に据えて時間をかけて考える、その必要性は認める。そこまでは求めていますが。このこと自体が「偽‐知」であると言うならば、そうおっしゃればいい。……ところが、実際には「偽‐知」である可能性がほのめかされるだけ。見慣れた光景ですけども。

「知」の落差にこそ「権力」は存在する。

 違いますね。「暴力犯罪」をググるとき、そこには僕の見解を否定する内容が書かれていることもある。それを恣意的に、僕の見解に合致するように書き換えることはできない。逆に、ここで僕がググっていなければ、そこで批判したいい加減な見解が「偽‐知」として力を発揮しかねなかったでしょう。


 そんなkurahitoさんに、ゴルギアスの一節をお送りします。

ではまあ、聞いて下さい、ゴルギアス。いいですか、よく承知しておいてもらいたいのですが、この私という人間は、自分で信じているところによれば、こういう人間なのです。つまり、ひとがお互いに話し合いをする時に、その話で話題になっている当のそのことを知りたいと願っている者が、もし誰かいるとすれば、この私もまた、そういう人間の一人だということです。ところで、あなたもまたそういう人であると私は考えているのです。(453A-B)

 「知」とはそういうものであって。権力として作用しうるのは、「偽‐知」以外の何物でもない。せめて、権威主義と「知」の区別くらいはしましょうよ。

*1:あるなら、示せばいい。