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モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

排外主義それ自体が暴力です、その2

 http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20090929/p1の続き。たとえば、「「暴力」の意味がブレてる。暴行・障害罪等の意味で取れば思想は関係なくなる。排外主義を暴力的思想として批判するなら暴行・障害罪とは別の話。殴らなくても排外主義だが、暴行・障害罪にはならない」みたいな意見がバカげている、ということについて。


 「殴る」という直接的暴力も、差別のような構造的暴力も、人を傷つけ、そこから追い立て、当たり前の尊厳を奪い取るという意味で、まったく等しく、暴力です。では、どうして一方に対しては法で取り締まられ、警察・監獄に象徴される制度化された対抗暴力が発動されるのに、他方に対してはそうではなく、ほとんど何もなされないのか。それは、少なくとも、暴力としての程度が小さいからではありません。程度の大小について何かを言える根拠などどこにもありません。

 直接的暴力は、行為であり、外形的にとらえることができます。ゆえに、いついかなるときに対抗暴力を発動させるのかのルールを、誤解の余地が比較的少ない形で規定することができます。これに対して、差別などの表象を通じた暴力は、そうした外形を捉えることが困難であり、取り締まられるべきではない他の表象と区別しがたい。だから、ヘイト・スピーチに対して強権を発動させることは難しい。そういう話です。つまり、これは純粋に技術的な問題なのです。*1


 法制度は技術的制約を免れません。ゆえに、そこに具現化される正義は常に不十分なものです。ですから、暴力について、それが違法か合法かのみに注意を払うのは、まったくバカげています。違法か合法かという基準で事の軽重を考えることもバカげています。単なる技術的問題に過ぎないものと暴力それ自体の問題性の区別がついていないからです。

 このように、法は技術的制約ゆえに目指された正義とズレてしまうのが不可避です。だからこそ、法と正義の隙間を埋めるための、真剣な思考と実践が要請されるのです。具体的には、数々の差別的発言・差別的実践に対して、できる限り多くの怒りを表明すること、できる限り多くの反差別発言をもたらすこと、できる限り多くの反差別的実践がなされることが要請されています。差別をなくすことができないとしても、差別と戦うことはできるし、差別がもたらす悲惨を減らすことができるし、差別される人々を勇気づけることができるし、差別に対して共に戦うこともできます。それを実際になせばよい。少なくとも、それをしてから、後のことを考えるべきです。*2

 そして、そのような試みがなされることだけが、「ヘイト・スピーチに対する法規制」のような強権発動の必要性を減らすことができます。あるいは、(強権発動をしない場合には)「表現の自由」のための生け贄を減らすことができます。だったら、最低限、その程度のことはやるべきです。


 このような観点からすれば、言論の自由、集会の自由、結社の自由等々の表現の自由一般を擁護したいと願う者は、それを可能にするためのこれらの実践=反差別実践に対して多くの努力を払うべきなのです。率先して、反差別の論陣を張るべきです。その実践を担うべきです。もちろん、そのような実践を担う暇がない、ということはありうるでしょう。しかし、少なくとも、そのような反差別の実践を支持し、擁護すべきでしょう。「あんなバカを相手にする必要がない」などという暇がある人ならば、反差別の意思表示をする暇はあるはずです。同様に、「法的問題と言論の問題と」云々などとおしゃべりしている暇がある人にも、反差別の意思表示をする暇があるはずです。まず先に、明確に、「排外主義反対です」と言っておくべきでしょう。

 ところが、「表現の自由」の擁護者を自称する多くの人が、これとまったく正反対の態度を取っています。まったく驚くべきことと思います。否、彼らが「排外主義の暴力は、直接的暴力「ほどではない」」と認識しているのであれば、合点がいきますね。

 しかし、そうであるならば、次のことを指摘せねばなりません。すなわち、排外主義によって不安と危険にさらされること、それを直接的暴力よりも小さなものとして見積もることそれ自体が、そのような不安と危険にさらされている人たちに対する差別です。それは、在特会の人々が示す露骨な差別とは違いますが、排外主義に不安と危険を感じる人々を孤立させる言説・態度であるという意味で、排外主義と相補的です。排外主義だけでなく、排外主義に対する寛容もまた問題なのです。


 ゆえに、暴力を拒否するならば、直接的暴力も、排外主義の暴力も、共に拒否する。それ以外にありえないでしょう。「本当に」暴力を拒否するつもりがあるのならば、それ以外にないはずです。

*1:そして、この一点だけをとってみても、法は絶対に正義に一致することができないことは、まったく明らかなことです。

*2:ついでに言えば、これらのことは、自らが(知らないうちに、不可避のものとしてetc...)差別している場合でも、できることです。