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モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

ヌルさについて

 えーと。


 頼れる大人もいなくて、もちろん経済的にもたくさん苦労して、殴られたり蹴られたり、放置されたり、あるいは支配されたり、生まれる前になんか悪いことでもしたんかというくらい不運な環境に生まれてきてそこで育って、とにかく年だけは重ねて。そんな風に大人になる人がいて。で、そんな風にして育った人が、同じように大変な酷い目に遭いながらとにかく年だけは重ねるように大人になった人から、さらにまた酷い目にあわされたりして。そんなことは実際にある。……とりあえず、した方をA、された方をBとしておく。

 そんな苦労がこの世にあることも知らずに育った人ならば、そんな二人を前にすれば言葉を失うだろう。なんにも気にしない奴がいるとすれば、そいつはおかしい。

 しかし、言葉を失うとして、で、言葉を失ったままウンウンうなるままなだけでいいわけ?そんなわけはないだろう。やはり、考えて、これまでどんな目に遭わされてきたとしても、それでも、誰かに酷いことをする、そのこと自体は問題にしなければならない。やっぱり、Aがどんな目に遭わされてきたとしても、Aはそんなことはしてはいけない。そう言い切るしかないだろう。言い切れないという人は、Bを見捨てることにイエスと言うのだと、わかりやすく明言しておいてください。

 Aに「してはいけない」と言えない?Bを見捨てるとも言えない?なるほど、言葉を失うとは、実に都合のよいことであるね。他ならぬ私にとって。あるいは、Aのことだけを話したり、Bのことだけを話したりすることも、実に都合のよいことであるね。バカを言ってはいけない。言葉を失った「まま」で、いていいはずがない。


 もちろん、Aを切り捨てて終わりなはずもない。Aに「してはいけない」と言うことは、同時に、Aがくぐり抜けてきた理不尽の一切についても「あってはならない」と言うことと同時でなければならない。逆に言えば、Aの経験した理不尽を「あってはならない」と言うためには、Aに「してはいけない」と言わなければならないのだ。こんなことはわざわざ書かねばわからないことだろうか。自明のことのように思えるが。

 だから、僕はAに対しては「してはいけない」と言う。そこに言葉を失いそうになる重さを感じるけれど、それ意外に答えはないもの。他にあるなら、教えて欲しい。こんなことは、自明のことのように思えるが。

 しかし、このように述べることは、実に実に頻繁に批判を受ける。もちろん、そこでの「してはいけない」がまちがっていることはありうる。だから、それは論点でありうる。僕はそのような批判に出会うことを、望んでもいるのだ。ところが、実際に言われることは、そうではない。大抵の場合、僕に向けられる批判は「そんな簡単に言うな」というものだ。「簡単に」。なるほど。

 僕は不思議である。誰かが何かを言ったときに、それが「簡単に」言われたことであるなどと、誰がどうやって知り得ているというのだろうか。長いつきあいなら、深いつきあいなら、多少推測がつくこともないではない。しかし、「簡単に」の類の批判を向ける人は、大抵の場合、僕はろくにつきあったことがない相手だ。本当に不思議で仕方ない。

 まぁ、それはどうでもいい。「簡単に言うな」というなら、難しい顔をして言えばいいのだろうか。たぶん、そういうことではないだろう。むしろ、簡単に「簡単に言うな」と言われているようにしか思えないのだが。だから、改めて考える。Aに「してはいけない」と言えるの、言えないの、それとも、Bを見捨てますか?そうではない違う話があるなら、それを言えばいいよ。


 で、ヌクヌク育った自分たちが言いよどんでる間にさ、Bが立ち上がって言ったんだよ。どんなに酷い目にあっても、その理不尽に対する怒りがあっても、それは誰かに対する暴力の根拠にはならないって。なるほど、言いよどむというのは、口ごもるというのは、言いよどむ暇がある、口ごもる暇がある、ということなのだな。忘れてた。Bにそこまで言わせていることを本当に申し訳なく思った。あんな思いは、二度としたくない。

 ただ、ちょっと注意しておく。言いよどむ、口ごもること、それはある意味で仕方ない。そうではなく、それが言いよどんでいない、口ごもっていない人に対して憎悪や不信になりはじめているなら、それが問題なのだ。もちろん、そこで言われていることの内容は問題にすればいい。しかし、言いよどまずに、口ごもらずに、何かを語ること、そこにはまちがいが含まれているとしても、そのことをくぐり抜けずにどこへ行くこともできない。

 大事なことは、第一に、原則的に考えることだ。あらゆる理不尽と同時に戦うためには、そこから出発するしかないからだ。そして、第二に、できるだけたくさんの問題に次々につなげていくことだ。私たちが目指すのは普遍性であるからだ。Aに対しても、Bに対しても、どういう落とし前の付け方があるだろうかと考えるならば、結局これしかないんだよ。だから、原則的に考えて、それを言う。原則的に考えて、たどり着いた答えがあるなら、それを問う。それこそが、言いよどむ暇のある自分たちの責任なのだろうと思う。


 だから、ヌルいのはどっちだよ、って、言いたくなるんだよ。まったく。ホント、くだらない。