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モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

行為への欲望を擁護する

 まぁ、無理だ無理だと言いなさんな。こここそ、擁護しておかねばならんことのはず。 


 陵辱表現であっても、必ずしも陵辱する側に感情移入してるわけではないとか、性に対する罪悪感と性的欲望の一つの結合のあり方であるとか、陵辱表現に対する欲望は(確かに)さまざまにありうる。その意味で、陵辱表現への欲望と陵辱行為への欲望は、必ずしも重ならず、表現を欲望する人たちの姿はずっと多様。それはそう。

 ただし、陵辱行為への欲望とほとんど区別つかない形で陵辱表現を欲望している人というのは、ホントにいる。そういう人はいて、じゃあ、そういう人は救いようがないのか。死んでもらうべきか。そんなことでもない。

 こういう人にとって陵辱表現はどのような意味を持つか。ガス抜きになるか。なる面もあるかもしれないが、むしろ、こういう欲望を強化するような面もあるかもしれず、私見では、後者の方が強い気がする。じゃあ、表現自体にアクセスできないように規制した方がいいか(クスリをやめさせるときみたいに)。それは効果があるかないか逆効果かどうかもわからない。

 ただ、それでも多分こうだろう、というところは想像がつく。こういう欲望を持つ人でも、それでもやっぱり実際に行為に及ぶということは、ホントにできない。ある意味、想像もつかない。それが相手にとってどれほど酷いことであるか想像できることは少なくない。だから、そんなことをしたくない、ということも同時に思っている。相反する欲望が同時に存在するような感じだ。

 こういう人は、本当に陵辱行為への欲望を持っているか定かではない、と言えるかもしれない。しかし、少なくとも本人の主観においては、その区別はつかないだろう。実際の行為には及んでいないが、行為に及びたいとも思わないが、行為に及びたいという欲望が自分の中にあるのではないか、そういう疑念がずっとある。だから、自分の欲望の中に、擁護しようのない邪なものがあるのではないか、という不安。それが切り離せない。

 あるいは。さすがに行為に及ぶことはないことくらいは強い自信が持てたとしても、それでも、自分の中にハッキリとある陵辱表現への欲望に対して、他ならぬ自分自身が後ろめたさや嫌悪感を感じる。自己否定感情に傷つけられることと隣り合わせのしんどさがある。


 もちろん、こういうところから、一切の後ろめたさを欺瞞の奥深くに追いやってしまうところまでは、ホンの半歩くらいでありうる。危うい奴は、メチャクチャ危うい。危ういが、それでも、その人の中には、自らの欲望の危うさとちゃんと向き合って、他者を大事にしながら生きていくこともできる、一線を越えることは死ぬまで一度たりともなく、そんな風に生きていくことだってできる。そういう可能性は、その人の中にもちゃんとある。欲望から自由になれなくても、欲望の下でどう生きるかにおいて、徹頭徹尾、人間は自由だ。

 陵辱表現を鑑賞しつつ、そういうゲームもやりつつ、他方で、性暴力の現実についてもよく知り、反対側に生きる人たちの苦しみについて真摯に学べ。そちらの方は、幸いにして、たくさんの人がそれぞれに言語化している。

 その上で、陵辱表現を愛好し、陵辱行為への欲望が自らの中にあることを否定しきれない存在として、反対側の苦しみを生きる人たちのことを知って、どう感じたか、どう生きたいと思うか、そういうことを少しずつでも形にしていってはどうか。そう簡単に語れることではないけれど、そこで考え抜かれたことは語る価値があることだ。

 で、「陵辱表現を愛好する自分の実態なんて、世間で語ったら迫害されるだけだ」とか言うよね。まったくそのとおり。そりゃあ、他者に暴力を加えるようなシチュエーションを欲望するような人間が、ただそういう欲望を認めてくれ、とだけ言うなら、やっぱりそれは気持ち悪いし不気味だ。そうじゃない。そういう人間でありながらも、反対側の苦しみを生きる人たちのことについて考えてみてどうなのか、そこを切り開いていくしかないじゃないか。必ず認めてくれる人もいる。

 もちろん、そうやってふりしぼった言葉でも叩く奴はいるだろうから、表現する場所や相手は選んだ方がいいし、慎重であるべきだ。今こそ話すチャンスだと思うまでは、話さなくていい。そのチャンスは一生こないかもしれないけどな。それでも、チャンスに備えて、考え続けておくべきだ。


 ただ、一つだけ注意しておく。そうやって自分の欲望とその反対側で苦しむ人のことを同時に考えていくと、まるで自分が生まれながらの罪人みたいに思えてくるはずだ。なければ、むしろ、おかしい、と言ってもいいかもしれない。けれど、断言しておくけど、そういう欲望を持つ身体に生まれてきたこと自体は、罪でもなんでもない。少なくとも現状においては、誰のどんな生であれ、誰かの犠牲の上にしか成り立ちようがない。ただ、その事実から目を反らさずにやれることをやっていく以外にない、ということ。どんな欲望を抱えて生まれてきたのであれ、それを抱えたまま他者とともに生きようと努めることはできるし、それに賭けるしかないよ。