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モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

いしけりさんへのコメント

 http://d.hatena.ne.jp/barcarola/20090613/1244917026
 度々言及ありがとうございます。
 あまり長くならないようにしたいですが、いくつか。


 第一に。国家権力の怖さは、直接介入だけでなく、私的権力行使の黙認という形でも実現されます。強制退去だけでなく外国人排斥デモの容認によって。女性に対する権利制限・教育によってだけでなく、私的表現の流通によって。格差問題や公害問題などで、国家による資本管理によってではなく、私企業に対する国家介入の制限によって。ですから、憲法でさえ、「個人を国家から守る」というにとどまらない側面を持っています。

 かつて、マッキノンの主張をいろいろ読んだことがありますが(そして、とても賛同はしませんが)、それでもマッキノンへの反論には首をかしげざるをえない、と結論しました。直接介入の危険性が語られるときに、私的権力を通じて実現される支配が軽視されている、あるいは、無視されているからです。

 以上を踏まえて。「陵辱表現の自由を主張される方が、自己の陵辱表現を楽しむ自由さえ確保できれば、差別や脅威にさらされている他の人の人権が侵害されようが興味がない、と表明されるのであれば、個人的には軽蔑すると思います」が僕の根っこにはあります。だから、国家権力の不作為と結託するものとしての、「表現の自由」とのみ述べる擁護論を批判します。自覚のあるなしに関わらず、これは国家権力の一形態です。その上で、国家権力の介入と不作為は、どちらも同じくらいに恐れるべきものと考えています。だから、規制に賛成する状況は「ありうる」でしょうね。

 僕は「個人的には規制には絶対反対だが」というエクスキューズをつけることこそ拒みたい。そのように言う人を非難しようとも思わないですが、それこそ「最後の最後の最後の最後」というつもりで規制に言及する人を考えるときに、それをためらいます。規制に賛成するかどうかは、やはり、その意思決定をしなければならない瞬間まで決められません。だから、やっぱり「ありうる」としか言えない。


 第二に。表現の自由言論の自由の場合には、「表現に脅かされないで暮らす自由」が制約を受けます。たとえば、伝統的価値観からエロ表現「からの」自由を求める人は、表現の自由の名の下に、我慢することを求められているわけです。もちろん、それでかまわないと思います。このような我慢を強いることはできれば避けたいですが、両立しない権利のどちらを優先するか、それは考えるしかないことです。そして、表現の自由を制約するよりは、表現の自由の下での相互理解を目指す方がよい、という判断がそこにはあるでしょう。

 では、単に価値観から「不快」というだけでなく、さまざまな経緯から性的な表現を脅威と感じる人たちについてはどう考えるべきでしょうか。以前、「萌え絵に萌えて何が悪い!と言うだけでいいのか?」という記事を書いたことがありますが、基本的な発想はそのときと特に変わりません。基本的には、表現を優先するので、かまわない、というより、他にどうしようもない。しかし、それは萌え絵に傷つくような人に「我慢せよ」と述べているのだ、ということを踏まえて考えられるべきことがあるわけです。やはり、表現の自由の下での相互理解を目指す方がよい。

 ただし、いずれにおいても、表現を可とする状況を前提として、そこから出発する、という話です。その努力が進められている間も、「表現に脅かされないで暮らす自由」が実現しているわけではないのです。だったら、「表現に脅かされないで暮らす自由」をまず保障して、その中で「表現への自由」を獲得する話としてやるのも、一つの進め方です。その一点が、規制論へのシンパシーです。実際、「表現に脅かされないで暮らす自由」について、一顧だにしてない人はいくらでもいますから。だったら、一度攻守交代して考えてもいいんじゃないですかね。

 そんな風に言われるとして、それを否定するだけの材料を僕は持ちません。まぁ、規制が「表現に脅かされないで暮らす自由」を保障しうるか、かなり疑問がありますので、その点は言うでしょうか。でも、その程度でしょう。


 第三に。少なくとも、具体的な誰かに開示できないプライバシーを開示することを要求しているとは思いません。「書けないこと」について書くことだってかまわないはずです。書ける範囲のことについて書くだけでも、全然違うでしょう。

 たとえば、レイプ願望のある女性をレイプしたら喜ぶか。全部を説明するつもりはありませんが、違うことは割とよくあります。そういう願望は、たとえば「自分が思うような相手から、自分の思うようなやり方で、拘束されたい」だったりします。一見して、現実のレイプにおける相手の意思への完全なる従属とは全然違います。本当に命の危険にさらされるような状況とも違います。これは僕の聞いた一例です。

 では、陵辱行為の表現に欲情する人は、それを実行したいという欲望を持つか。ここもかなり微妙。たとえば、一例として、「ゲームなどの凌辱表現について 女性に読んでおいて欲しい話 - カオスの縁 ――無節操日記」とか。性に対する罪悪感が、相手に自分の性的欲求を否定してほしいという願望の形となって現れる、という説明をしていますが、陵辱行為への欲求とその表現への欲求にズレがあることを示しています。似たような話は別のところでも聞いたことがありますが、一例でしかないとしても、一例があるということは、他にもありうることを少なくとも示唆します。こんなことだけで「ああ、怖くないんだ」などとなるとは思いませんが、こういうことの積み重ね以外に何があるわけでもないのです。

 いずれにせよ、「表現の自由」を盾にする言説において、さまざまな表現に出会うことで緊張を強いられている人たちは無視されているわけですから、「自分たちの感じるつらさは無視されている」と感じることで、問題はより深刻になるでしょう。それはそれとして、相互理解の試みを、とは僕は言えないと思います。他のまともな言説があるからといって、「表現の自由を盾にする」言説をほっておくわけにはいかないというのは、そういう意味です。