モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

「レイプレイ」と表現の自由、その4

 最初の記事の、最初の文を、提示しておきます。

女性を陵辱して言うなりにすることを目的とするゲームへの規制が主張されていることに対して、「表現の自由」の名の元に「規制まかりならぬ」などと言う輩がいるらしい。笑うべき論、と思う。

 そのことと、もう一つ、「ゾーニング」論についても。今みたいな調子でゾーニングすると、やればやるだけ問題を深刻化するだけ。
【追記:一点、補足を書き足しました。】

表現の自由」は誰のものか

 準備としていくつか確認しておきます。

 第一に。たとえば、個人情報に関する「表現の自由」「言論の自由」は制約を受けます。その意味で、これらの自由は、絶対的な無制限を事前に約したものではなく、個々の表現物、個々の言論について、また、その特徴によって、制約を受けるか受けないかを決めることが可能なものです。(1)現状の制限、(2)現状の制限+陵辱表現に対する制限とするとき、(1)のままでいくか(2)にするかどうかは、とりあえずはオープンな問いのはずです。

 第二に。規制が規制であることは自明です。では、「表現の自由」「言論の自由」とはなにか。それは表現や言論への規制に対する「規制」であり、かつ、そのような表現を目にしないで暮らす自由に対する「規制」です。規制の主張が「規制をちらつかせている」なら(いる)、「表現の自由」「言論の自由」の原則を連呼するのみの規制反対も「規制をちらつかせている」のです。よろしいでしょうか。規制派が(今はない)「規制をちらつかせている」のだとすれば、原則論的規制反対派は(現にある)「規制をちらつかせている」のです。そして、どうも後者には、その自覚はない。

【↑上記部分。いささか誤解を招いているので、太字部分を追記します。その背景がわかるわからないに関わらず、そのような表現を脅威と感じる人にとっては、それを目にしてしまうリスクなしに自由に出歩く自由が制限されています。そのことを言っている。】

 第三に。ゾーニングやレーティングなどの規制があるとはいえ、表現は現に可能な状況にあります。自主規制がなされたということは、規制がないことの裏返しです。世論の風向き次第で、元とまったく同じ表現を再度流通させることだって可能なものです。少なくとも今のところは。現状における優先権は、それがどれだけ非難にさらされているとしても、表現する側にこそあります。その意味で、強者です。このことは、陵辱表現が社会的に白眼視され、それによって孤立感を深めているという意味では弱者である、ということと両立します。表現者や愛好家たちがどれほど驚異を感じていようとも、今現在の優先権は表現を可とする側にあります。


 このような状況において、「表現の自由」「言論の自由」を連呼するだけの原則的規制反対論はいかなる役割を果たしているか。僕が最初に考えるのはこの点です。それはまさに、「表現の自由」という現にある優先権を盾として、それはつまり、現にある権力と印象と多数決によって、「まともな性」「まともでない性」に振り分け、まともでないとされた性を否定し、存在を消滅させることです。

 要は、「まともな性」「まともでない性」の中身が何か、というだけです。もちろん、原則的規制反対論においては、「陵辱表現を愛好すること」は「まともな性」です。他方で、「表現を脅威に感じる人」は、「気にしすぎ、カウンセリング受けた方がよい」、つまり、「まともでない性」になるわけです。つまり、やってることは同じなんです。

 そして、そこに最重要のポイントがあることは、僕の一番最初の記事の一番最初に明示してありました。

 女性を陵辱して言うなりにすることを目的とするゲームへの規制が主張されていることに対して、「表現の自由」の名の元に「規制まかりならぬ」などと言う輩がいるらしい。笑うべき論、と思う。

 これをどう読んだのかは人それぞれですけどね。まぁ、元々、誤読怪読珍読大歓迎ですので、それはいいです。

 いずれにせよ、規制に反対するとしても、原則的規制反対論ではないやり方でしなければならない。しかし、今現在の優先権が表現を可とする側にある以上、内容についての反省も議論もなされないならば、そのような表現を脅威と感じる人たちに対しては「このまま我慢せよ」と言っているだけになります。それがそもそもの問題です。


 もちろん、原則的な反対論ばかりが、規制に反対する声のすべてではないでしょう。それをひとまとめにして批判するのか。そういう反論はあるでしょう。まぁ、誰がひとまとめにしているんでしょうか?という疑問はありますが、誤読歓迎なのでそこは措きます。考えて欲しいのは次のことです。あらゆる主張が規制か反規制かのどちらかの陣営に割り振られて、その枠でのみ取り扱われるとき、そこで何が起こっているのか。中身とは関係なく叩かれたり、同時に、中身とは関係なく擁護されたりするとき、そこで何が起こっているか。

 規制に反対する多様な声の中にはは、原則的規制反対論に対して懸念を示したものもありました。しかし、当の原則論者自身がそれを受け止めた形跡はほとんどありませんでした。もちろん、ないことはないのでしょうが、大多数は聞き流しているようです。結局のところ、その懸念は原則的規制反対論者に届かない。なぜか。それは、その種の批判がなされないから、ではありません。原則的規制反対論者は、まさに「戦略的に」ふるまっているので、同じ規制反対論者からの懸念表明に対して、まじめに取り合っていないのです。彼らにとっては、規制阻止という結果のみが目標であり、そこに至る理由はどうでもよいものだからでしょう。

 同じことが、別の立場の人たちについても言えます。たとえば、表現そのものへの疑問を提示しつつ、規制には賛成しない、できないという人たちが結構いました。その人たちに対する応答はいかになされるでしょうか。ここでも、基本的には、形式的な共感が表明されるか、あるいは、黙殺されるだけです。ここでも「戦略的に」ふるまっているのでしょう。表現そのものへの疑問に対しては、応答しない。なぜなら、その応答を通じて、「規制賛成」に押しやるのは損だからです。だから、規制に賛成しない限りは、当たらず触らず、ということになる。

 だから、(現にある)「規制をちらつかせる」に対して、(今はない)「規制をちらつかせる」を対抗させることになる。僕はそのように考えています。


 では、原則的規制反対論はほっておくことは可能でしょうか。もちろん、原則的ではない、まともに中身を論じる規制反対論はあります。規制に与するのではなく、しかし、表現についての疑問を提示している人たちはあります。そこでのまともなやりとりも、現に、あるでしょう。もちろん、そのことは認めるし、評価もします。では、重ねて聞きますが、先のような原則的規制反対論をほっておくことは可能でしょうか。

 既に示したように、それはまさに、「「表現の自由」という現にある優先権を盾として、それはつまり、現にある権力と印象と多数決によって、「まともな性」「まともでない性」に振り分け、まともでないとされた性を否定し、存在を消滅させること」を主張する議論です。つまり、それ自体ヘイト・スピーチです。それは「表現の自由」の原則に立っているというよりは、「表現の自由は私たちの側の物であって、あなたたちの物ではない」と述べているからです。

 もちろん、述べている人に、ヘイト・スピーチを行っている自覚はありません。ただ、自分たちの立場を守ろうとしているだけでしょう。主観的には。そういう意味では、KKKだってナチスだってそうでした。問題は、ある種の立場を守ることを「戦略的に」やりはじめた途端に、実質についての議論を貧困にしてしまう点にあります。現にある法を盾にして、法を正当化するレベルの議論を一切拒否するとは、そういうことです。

 何人かの人が指摘していたように、「原則的な反対論ばかりが、規制に反対する声というわけではない」でしょう。その通りです。しかし、問題は、さまざまな規制反対論があって、その中にくだらないものもある、というようなことではない。そうではなく、ヘイト・スピーチそのものでしかない一つの立場が依然として堂々と、一つの立場として通用している、ということです。そして、僕は最初からそれを的にしています。

 最大のガンである原則的反対論者は、規制に触れない限りはまともに取り合わない。まぁ、規制に触れてもまともに取り合っていないわけですが。だったらしょうがない、規制か反規制か、数の取り合いにしかならないでしょうね。規制を「ちらつかせて」物を言えば、さすがに「言論の自由」を守れ、というだけのバカはいなくなりましたね。スターリンとかファシストとか、いろいろありがたい称号を頂戴しているわけですが。しかし、そもそも抗争が「どのスターリンがマシか」「どのファシストがマシか」のレベルの話に堕してしまう最大の原因は、原則的規制反対論者にあるんですけどね。

 規制を「ちらつかせている」ことで、規制反対論の全体から批判を受けるとして、それはありうる勘違いでしょう。では、「ちらつかせて」いるのは、そもそも誰なのか、そして、現行法はどのあたりにあるのか。あらためて考え直していただきたい。


 ついでに述べておきましょう。仮に、今の状況がさらに進んで、規制派こそが多数をとって規制が実現したら、僕はどうするか。規制が実現したときに、規制のみを盾として、規制解除に向けた要求を突っぱね続けるならば、「原則的規制解除反対論」が幅をきかせるならば、それこそ「規制解除」をちらつかせて、規制解除派に与するでしょうね。まぁ、同じことの繰り返しなら、バカバカしいので、もうどっちも好きにしろ、となるかもしれませんが。

いわゆる「ゾーニング」の愚かさ

 既に述べたように、規制賛成論と原則的規制反対論は、(今はない)「規制をちらつかせている」のか(現にある)「規制をちらつかせている」のかの違いに過ぎません。その意味で言うなら、両方批判します。僕が望むことは、究極的には、陵辱表現を愛好する人とその表現を脅威と感じる人たちが一緒に暮らしうる状況を作ることです。

 はい、ここで「だからゾーニング」と言いかけた人がいるでしょう。少なくとも、規制反対論者が言うような意味でのゾーニングは、百害あって一利ありません。


 現在主張されているゾーニングというのは、ゾーニングすることで、そもそもゾーニングされている対象がいかなるものであるかを理解する必要がなくなるような、そういう意味でのものです。陵辱表現を脅威に感じる。それは仕方ない。じゃあ、目に触れないようにしましょう。そういうものです。

 しかし、第一に、その意味でのゾーニングはいつでも失敗します。目に触れる可能性を下げることはできますが、やっぱり目に触れるんです。だから、次には「その程度は我慢しろ(こっちも我慢してゾーンの内側に籠もってんだから)」というわけです。まぁ、そうなるなら、また比較考量の問題であって、それこそ佐藤亜紀氏が言うように、「闇」「裏」に「ゾーニング」しましょう、という話になったとして、それもまた原理的にアリです。

 さらに、第二に。こちらの方がより深刻です。「そもそもゾーニングされている対象がいかなるものであるかを理解する必要がなくなるような」ゾーニングがなされるということは、ゾーンの外において、ゾーンの内側に対するどんな偏見が育まれたとしても、それを止めるものは何もないということです。かくして、ゾーニングの向こう側で育まれた差別と偏見が、さらなるゾーニングの強化を望むようになるのに時間はかかりません。それは、ゾーンそのものの廃止、ゾーニングされたものたちの排除・殲滅にどんどん近づいていくでしょう。見飽きるほど繰り返された展開です。


 どのように育まれるとしても、差別と偏見はそれ自体が問題です。しかし、そのようにすれば事実として生じることをわかった上でやるなら、話はまた別であり、規範的にいいの悪いの言っても仕方のない話です。ゆえに、差別と偏見の側からゾーニングが要求されるならともかく、いずれ成長した差別と偏見によって排除される側の人たちからまでゾーニングを要求されるのは、理解に苦しみます。ゾーニングによって相互理解の道を閉ざしておいて、しかし、ゾーンの向こう側に対して差別・偏見を持つなというのは、気持ちはわからないではないですが、事実として、無理でしょう。

 良くも悪くも、人間は、近くにいる他者に関心を持つ。関心を持つからこそ、仲間と認識することもあるし、逆に、得体の知れないもの、潜在的な敵と認識することもあります。「わからない」とき、しばしばそこに恐怖が募ります。これを分け隔てることによって乗り越えられるか。卑近なところで観察される人間のありようを考えても、繰り返されてきた歴史的経験を考えても、そんなことはまず期待できない。お互いに何の関心も持たないようにしましょう。ただ「無害である」と信頼しましょう。できた試しがない。こういう発想は、ありとあらゆるところで失敗しています。まして、そこで愛好されているものが「陵辱表現」であり、そこだけは、ベタな意味では「わかってしまう」わけです。

 そこから、相互不信が生まれ、監視が生まれ、我慢できなくなった末の暴力的排除に至ります。そんなことは、いたるところで繰り返されています。そこまでわかってて、もう一回やってみよう、今度こそゾーニングはうまくいくんだ、とまで言うなら、もう止めません。僕は知らん。でもまぁ、無理だと考えるなら、別の道を行くしかありません。思いつくのはそれほど難しくないでしょう。結局のところ、相互不信と排除を避けたいと思うならば、(いかに困難ではあれ)相互理解に向けた道を歩く以外にないのです。もちろん、この道を実際に行くことはとても困難です。しかし、他に道があるでしょうか?


 では、ゾーニングは無意味か。無意味ではありません。たとえば、陵辱表現を脅威だと感じてしまう感性はそのままであっても、陵辱表現を愛好する人の実像を知って、その人とその表現は滅し去られるべきでないということは理解して、しかし、それでも怖い、という人はいるでしょう。その場合に、「ここにはこれこれこういうものがありますよ」という表示をするわけです。

 つまり、そこに何があるのか、どういう意義を持つのかが理解された上でもゾーニングは必要でありえます。陵辱表現を愛好する人たちとそれを脅威と感じる人たちがともに暮らすときに、それでも残る問題に対してゾーニングが役に立つという面はあるわけです。相互理解、少なくとも、そこに向けた努力の中でも、やはりゾーニングは必要です。ただし、ゾーニングは相互理解を不要にするのではないし、相互理解へ向けた努力と切り離されたゾーニングが行われるなら、問題を一層深刻にするだけです。

 その意味で、ゾーニングという手段を使うにせよ、それでもなお、「表現の自由」「言論の自由」という原則のみに依拠した規制反対論は、やはり、問題解決に対して意義ある立場たりえないわけです。