モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

「レイプレイ」と言論の自由、その3

 二つほど。

問題は「性暴力を助長する」ではなく「性暴力そのもの」

 問題は、性表現一般ではないし、性暴力一般でさえなく、とりあえずは、性暴力を肯定する表現です。性暴力とそうでないものの境界が曖昧だとしても、問題になっているのは曖昧な事例ではなく、規制派も反対派も「性暴力の肯定的表現」と認識しているものです。そのような表現を、性暴力被害者に対して今なおセカンドレイプ的言説が繰り返される社会において流通させることの問題です。

 で、表現は、表現であると同時に、直接の脅迫でありえます。わからないようだからハッキリ言いますが、「性暴力を助長するかもしれない」じゃなくて、それ自体が性暴力なんですよ。レイプが、身体の自由に対する直接の侵害であることは説明の必要はありません。では、脅迫はどうか。脅迫は、身体の自由に対する侵害の予告であって、侵害自体ではありません。しかし、侵害の予告をもって実際の行動の自由を奪うという意味で、やはり「自由に対する直接の侵害」なのです。まして、性暴力被害者に対する誹謗中傷が野放しになっている社会において。

 もちろん、女性でも、性暴力表現を脅迫と感じない人がいるのは当然のことです。では、気にする奴は繊細過ぎ、気にしすぎ、オマエが悪い、ということになるか。なるわけがありません。

 だから、性暴力を肯定する表現に対して、それは現にある社会的文脈において脅迫として作用するヘイト・スピーチではないか、という疑義が突きつけられる。これに対する応答が、「表現の自由、侵害するべからず」のみであるならば、まったく対話が成立していない、と言うほかないでしょう。性暴力を肯定する表現が「役に立つ」以外だっていいですよ。とにかく、その表現することの肯定的意義を、社会に向かって説明すべきです。自分にとっての意義であれ*1、社会にとっての意義であれ。意義の説明の仕方に、唯一の正しい方法がある、と言っているわけではない。

 いずれにせよ、「そもそも意義なんかない」などと言うのであれば、脅迫になることが避けられない、という点からのみ考えるしかありません。賛成するかどうかは別にして、「規制」という主張が出てくるのも当然至極。

 だから、単に「表現の自由」などと言い張るのではなく、表現そのものを擁護する必要がある。それでもどうしても「表現の自由」としか言わないというのは、性暴力表現に恐怖する女性は本人の問題、勝手に怖がっておけ、と言っているに等しい。そんなものが認められるわけがない。

 もちろん、この社会が性暴力被害者に対して誹謗中傷を繰り返すのは、陵辱ゲーム愛好家・制作者の責任ではありません。「自分たちの表現が脅迫になるだなんて思わなかった」。そういうのもあるでしょう。ただし、その言い訳が許されるのは、大目に見ても最初の一回までです。改めて文脈を示された上で、自分たちの表現について考え直すことはできます。にも関わらず、さしたる申し開きもなく同じ表現を繰り返すなら、脅迫とわかっててやってるとみなすしかないでしょう。やはり、賛成するかどうかは別ですが、「規制」という主張が出てくるのも当然至極。

立証責任

 関連する論点として、「立証責任」なるものについて。規制が必要だと主張する方が、表現の有害性を立証すべき、などと言っているが、バカを言うな。

 たとえば、刑法上の罪を裁く場合であれば、それは国家と個人の間の問題であって、その場合に「推定無罪」などの原則が用いられるのはわかる。しかし、民事、つまり、個人と個人の間の問題である場合には、両方ともが自分の主張を述べ、相手の主張に対する見解も述べ、それらを総合的に判断する。だから、黙秘の意味も、刑事と民事では全然変わる。民事での黙秘は、それ自体が「相手の主張を認めた」と解釈されることだってある。

 法規制が存在する場合に、ある表現が規制にひっかかっているかどうかを判断するという場合には、当然「推定無罪」「罪を問う側に立証責任がある」ということになる。しかし、ある法規制を行うかどうかという話は、個人間の権利衝突の問題であって、民事の話の方に近い。アプリオリにどちらかに立証責任を帰すような話になるわけがない。

*1:もちろん、「俺が好きだから」というだけでもOK。しかし、その場合に考えるべきことについては、後で述べます。