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「レイプレイ」と言論の自由

 女性を陵辱して言うなりにすることを目的とするゲームへの規制が主張されていることに対して、「表現の自由」の名の元に「規制まかりならぬ」などと言う輩がいるらしい。笑うべき論、と思う。


 この件に関して、佐藤亜紀氏が6月3日付の日記で述べている次の内容は重要だと思われる。

悪魔の詩』がそういう(注意:ムスリム表現の自由を圧殺する、というプロパガンダの)トポスにならずに済む機会が、少なくとも一度はあった、と私は考えている――冗談みたいな話だが、在英ムスリム団体があの本に冒涜罪を適用するようにと当局に訴えた瞬間がそれだ。逆説的だが、もしイギリスの法廷が、冒涜罪は国教会とその首長である女王に対する冒涜に対してのみ適用される、などという固いことを言わずにラシュディ氏を召喚していたら(かつ、表現の自由が、とか言わずに、悪意の有無を徹底して追及していたら)、ラシュディ氏はむかつきながらも西と東の狭間に立つ作家としての実績を重ね続け(今だって悪くはないのだが、読まれ方はまるで変わってしまった)、少なくともイギリスは――もしかするとヨーロッパを含む、所謂「西」の世界は、ムスリムとの相互尊重と共存への期待をアピールすることができたのではないか、と。

 どんな主義・主張であれ、自らの正当性を社会に対して申し述べる機会があるべきである。「言論の自由」とはそのためのものである。だから、陵辱ゲームの愛好家・擁護者は、「表現の自由」を正しく行使せよ。それはつまり、「陵辱ゲーム」のような表現が、今もなお存在する圧倒的な性差別構造を解体するためにいかに有用であるか、ということを説明せよ、ということだ。

 それをしない、できない、ということは、陵辱ゲームは一目で了解する限りの意味以上のものを含まないと、愛好家・擁護者たちが認めている、ということだ。それは性差別そのものの表現であり、それ以上のなんらの意味を含まないということを、愛好家・擁護者たちが認めている、ということだ。愛好家・擁護者がこの程度である限りは、こんなものは規制さるべし。

 さらに言えば、一度規制を受けたら終わり、というわけではない。規制を受けた上で、改めて陵辱ゲームが私たちの社会に対して持っている「良き意味」について真剣に考え抜いて、それを社会に向かって主張すればいい。それが成し遂げられれば、陵辱ゲームならびにその愛好家に対する差別と偏見を私たちは詫び、再び陵辱ゲームを作り愛好する自由を認めるだろう。

 「陵辱ゲームを規制せよ」という主張の前にも、言論の自由はあるし、その規制が実現した後にも、言論の自由はある。陵辱ゲームの愛好家と擁護者は、存分に使うがいいと思うよ。やれるもんなら。


 もともと、規制より何より先に、一見してヘイト・スピーチにしか見えない表現に対して、「それはヘイト・スピーチだ」という批判がなされてきたのだ。それに対して返されるべきは、「ヘイト・スピーチではない」という応答のはずだ。ところが、それは、それだけはなされなかった。代わりに、「言論の自由だ」などという、木で鼻をくくるような応答が返されてきたのだ。どこが「言論の自由市場」だよ。愛好家も擁護者も、言論以前じゃねえか。

 結局、愛好家も擁護者も、話の通じないバカorカマトトであり続けてきた。だから規制という話になる。なるしかないわな。しかしまぁ、今からでも遅くはない。真剣に、陵辱ゲームは性差別解消に向けた真剣な表現であるのだ、試みなのだということを、真剣に論じて見せよ。できるものなら*1


 ちなみに。ゲームがガス抜きになる、みたいな論がある。実際にガス抜きになっているのかどうかは、助長しているかどうかと同じくらいに検証困難なことなので脇に置く。強いて言うなら、ヘイト・スピーチを禁止したらヘイト・クライムが増えた、という話は聞かないので、元々ガス抜きにもなってなかったんではないかとは思う。助長していないとしても、ガス抜きにもなっていないならば、規制したって別にいいわけだよな。

 まぁ、それはともかく。「ガス抜き」になるかどうか以前に、意図するせざるに関わりなく、性暴力を肯定する表現が野放しになっていること自体が、直接に脅迫として作用している、という点だ。つまり、「ガス抜き」論が言っていることは、「直接レイプするのと、「レイプするぞ」と脅迫するのとどちらがいい」という、それ自体脅迫でしかない。それに対する応答は、「どちらも選ばない」以外ありえない。ただ、暴力も脅迫もやめろ、というだけのことだ。この件について、妥協の余地はない。

 それが不可能だというならば、脅迫か暴力のどちらかなしでは生きていけない自分が人と人の間に安住できるなどと思うな。そこに開き直る人間がいる限り、性暴力を恐怖する人々は安心して生きていくことはできないのであり、故に、両者は並び立たず、並び立たないならば、僕は性暴力を恐れる人たちの側につく。倶に天を戴かず、ということだね。

 「誰かを殺したい」という欲望を抱えつつ「殺さない」ことは可能だ。言うまでもなく、ガス抜きなるものがなくても可能だ。「誰かをレイプしたい」という欲望についても同様。「ガス抜きしないと、そのうち前後不覚になって、思わず誰かを襲ってしまうかもしれない」などという生まれついての暴力依存など、そうそういるものではない。

 欲望は人間にとって完全に自由になるものではないにせよ、完全に天与のものであるわけでもない。だまされたと思ってしばらく陵辱ゲームを断ってみろ。ちょっとくらい不満が続くかもしれないけど、少なくとも「代わりに本物を襲ってやろう」とか、まず、思わないから。で、そのうち、それなりには慣れる。人と人の間に暮らすことを諦めないのならば、そのくらいのことはやってみろ。

*1:僕自身は、規制に賛成するかどうかは相変わらず「保留」だけど、規制派の方にこそ圧倒的なシンパシーを感じるし、実際に採決みたいな場面に自分がいるとすれば、規制賛成に投じる可能性は十二分にある。