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モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

徴なき民族のために

 「無徴と民族性」@地を這う難破船
 毎度、トラックバックをありがとうございます。

呪われた生などない

 不正と暴力から生まれてきた子どもは呪われているのでしょうか?そんなことはない。断じて。もちろん、自らの誕生の原因にあった不正と暴力を問うことは可能ですし、むしろ、誰かがやらなければならないことです。しかし、どんな経緯によるのであれ、生きて在ることは、その経緯によらず、同じくらいに良いあるいは悪いことです。その意味で、呪われた生などない。

 もちろん、不正と暴力から生まれてきた子どもは、少なくともそのことを知れば、それについて悩むと思います。誰だったか忘れてしまいましたが、米軍基地の存在を批判することとアメラジアンの友人に対する「ともにいたい」という感情を矛盾するものとして捉えた話をした人がありました。その友人の父は米兵であり、米軍基地がなければ沖縄にいることはなく、母と出会うこともなく、ゆえに、彼も生まれていなかったであろうから、ということです。

 一読して、根本的にまちがっている、と思いました。こんなグロテスクな結論を引き出さねばならないということ自体が、その前提を拒否すべき理由です。出生における因果と生まれ出た命をこんなやり方でつなげるべきではない。批判するにせよ擁護するにせよ、生まれた命と不正と暴力をひとまとめに扱うようなやり方自体が拒否されるべきです。心情的に、簡単に拒否できる、ということではありません。しかし、拒否してみるならば、そのような前提を採用すべきいかなる理由もない、最初からなかった、ということに気づくはずです。

私(彼女は「私たち」とは決して言わない)にとって、先住民であることの文化的な徴は最初から失われていた。ありとあらゆるキッチュな西欧の文化が氾濫する環境で私は「ポップに」育った。それは慶賀すべきことだったか、いいえ。

「慶賀すべきことだったか」──問いがそもそもおかしい。先住民であることの文化的な徴が最初から失われている状況、それをもたらしたところの不正と暴力に対しては、「慶賀」もなにも、真っ向から批判されるべきです。ただし、私がその中に生まれ落ち、そこで育った。それについても、「慶賀」もなにも、単に「私に与えられた世界がそういうものであった」という事実に過ぎません。いいも悪いもない。そして、生まれ落ちることは、どこにどんな風に生まれ落ちることに比べても、同じように良いあるいは悪い。呪われた生など、どこにもない。僕はそう言い切ります。

ただ単に「無自覚」を憤ればいい

長じて、「先住民」の文化的なアイデンティティを白人に対して売り物にする大量生産のキッチュな日用品や観光土産品や子供向けの人形に、私は憐れみに似たどうしようもない愛着を覚えるようになった。――私の、最初からデリート&リロードされて失われた「先住民」というアイデンティティを、その贋物性や、キッチュさを含めて、標しているようで。まるで墓標のように。

「墓標のように」──そうでしょう。しかし、それは「墓標のような文化」であって、「墓標」ではありません。それは資本制の暴力の中を生き延びんとする人々の営みが生み出した文化でもあります。家がないのでダンボールを被って生きている人がありますが、そこにも文化があります。当然、ダンボールを被って生きる羽目に陥らせるところの社会構造は批判されるべきです。しかし、そこに生きられている人々の営為は肯定される。もちろん、墓に暮らしている人がいれば、そのような人の営為も肯定される。こうして見ると、「墓」と「暮」という字はよく似てます。どうでもいいことですが。

 僕は、墓標のようであることから、否定的なものしか取り出せないとは思いません。当然のことです。同時に、その背後にある資本制の暴力について批判的に考えることは可能です。僕の考えからすれば、生きられている現実を肯定できるからこそ、そこに含まれる一筋縄ではいかないものともきちんと戦える、という類のことだと思います。

だから私は、その「先住民性」を文化的な差異として市場に流通させる記号としてのキッチュな大量生産品を、私自身のアイデンティティとしての「先住民性」の徴として、改めて愛し、息を吹き込み蘇らせてやる。「先住民性」の商業化された死体を、醜く滑稽でキッチュなままに、私自身の「先住民性」というアイデンティティの徴として、蘇生させる。――むろん、皮肉な話をジョーク交じりに述べている。その表現同様に。そしてその表現同様に、彼女は大真面目に話している。

「蘇らせてやる」──やりたければやったらいいんじゃないでしょうか。止めはしません。というようなことは、マジョリティの無自覚・無関心からのみ言われることではありません。

 hokusyuさんが「マイノリティのアイデンティティが、「回復」されるべきものであり「選択」されるべきものではない」というような考え方を紹介していましたね。僕はこれを重苦しいものと思います。「回復」される「べき」もの。誰が回復するのか。マイノリティ自身です。たとえば、僕です。なんか、最初から負債を負わされているかのような感じがします。「回復」される「べき」は余分です。「回復」しない私を罪人にするからです。むしろ、取り戻すべきと言うならば、あんたがやってよ、と言いたくなる。実際、いろんな人がマイノリティ文化からいろんなものを好き勝手に切り取って持って行くじゃないですか。あれはあれでいいと思います。悪いとして、悪いと言う筋合いもないのですけど。

 文化というのは、生活の様式ですから、作られたり、生きられたり、失われたりすることはあるでしょう。しかし、そのことは、取り戻さなければならない、ということを導きません。失われた経緯はもちろん問題です。不正と暴力によって失われた文化があるならば、その失われた経緯は問題にするべきでしょう。しかし、そうして失われた文化が「取り戻されなければならない」かどうかは、私たちが自分で考えるべきことです。自らが生きている生活の様式をまず肯定し、そこに「取り戻されるべき」と感じるその文化を取り戻して付け加えることが自分にとって何を意味するのか、それを考えて「選択」されるしかないことです。


 以上のようなことを踏まえて、マジョリティの無自覚に憤ることはできます。再三述べたように、そこにあった経緯を問うことはできるからです。そこにあった不正と暴力を問うことはできるからです。ただし、その中に生まれ落ちた者が呪われているわけではありません。だから、そこで生きられた現実=文化を貶める必要もありません。貶めるのは「余分」です。

歴史と政治と文化

 文化とは、歴史と政治に規定される概念です。……

 それでは事態の半分以下しか捉えていません。文化とは、生きられる現実そのものです。生きられる現実は、歴史と政治に制約されるとしても、決定されるのではない。第一義的には、生きられる現実として作られるものです。一瞬一瞬において。そして、生きられる現実を基盤として政治は行われるのだし、それが歴史を作ります。

 ジンバブエルワンダもユーゴも知らない先達たちは、過ちを犯しました。私たちはジンバブエルワンダもユーゴも知っています。知ってなお、過ちを繰り返すならば、それは先達たちが犯したより一層大きな過ちを犯すことになるでしょう。「じっちゃんを守れ」とか言っている場合ではありません。そもそも、過ちを過ちであると言うことは、「じっちゃん」を笑うためにやることではありません。

 ところで、私たちは、植民地支配を批判されるべきものとして理解しています(sk-44さんがどうかは知りませんが、とりあえず)。それは、当時の日本に植民地支配ではないまともな道が可能であったかどうかが確認されて初めて、批判可能なものなのでしょうか?そうではないでしょう。当時の植民地の人々に与えられた差別的待遇の数々を見るとき、そこから直接に、それは過っていた、と結論するはずです。倫理とは、何をやるべきであったかを教えるものではありません。何に取り組むべきであったかを考えるためにあるものです。私たちが植民地支配に対する日本の責任を考えるときには、そういう風に考えているはずです。何が可能であったかに関係なく、それはまちがっていた。そのように言うはずです。

 ですから、これは歴史段階の問題ではありません。最初からできたことでありえます。少なくとも、幼いときに朝鮮から日本に渡ってきて、差別と侮蔑にさらされ、学校にも行けず、朝鮮民族の文化や歴史を知らず、文字すらも読めなかったというような人でも、そこには多大な困難があったにせよ、できたことです。そこに倣えばいいのです。帰るもなにも、ここが私の家です。もちろん、少し離れた向こうにも、私の家はありますが。

補足 民族性と民族主義の区別について

 どうしてこんなにまで「区別は困難」ということが、論証されるまでもない前提として流通しているのか、不思議に思います。というのも、「墓標のような文化」を、生きられる現実として肯定するとしても、それを殊更に良いものと言うのはコントでしかないからです。「いじめられるオマエはいっこも悪くない」は言えますが、「いじめられるからこそオマエはチョー偉い」と言うのはコントでしかないのと同じです。……まぁ、最近は真顔でコントやってる人も出てきたんで、「えー」って感じなんですけどね。

 いずれにせよ、こういうことなので、区別は明瞭だと思います。ただ、今まで区別していなかった人が区別しようとするときに痛みがある、ということならそうでしょう。ジンバブエルワンダやユーゴ以前なら、痛みを前に立ちすくんだかもしれません。しかし、ジンバブエルワンダやユーゴも知っている私たちは、この痛みを、ジンバブエルワンダやユーゴと比較してみるべきです。私はどっちを望むのか、と。

 それを残酷と言えば言えますが、それなら残酷でない解を示していただければ、というだけの話です。