モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

「個人に依拠する」ということ

 主に、「個人と民族主義」について。
 「個人に依拠せよ」の意味が取り違えられていると思うので(無理もないことですが)、そこから始めたいと思います。

「個人に依拠する」=「「私が在る」に依拠する」

 僕は「個人に依拠せよ」と述べました。「いかなるアイデンティティの基盤とも関係のない無色透明の個人」みたいな理解をしている人が多々いるので、それは誤解であるとハッキリ申し上げておきます。僕が「個人」に依拠せよというときに述べているのは、私の身体、私の生活、私の関係性、すなわち、私の生の現実に依拠せよ、ということです*1。それが民族主義者の言う模範的形式にしたがっているならば、それをそのままに、したがっていないとしても、それをそのままに。「そのままに」です*2。これは抽象的なものでも透明なものでもありません。民族主義が要請する規範などより、遙かに具体的で現実的なものです。生きられている現実そのままなのですから。そこに依拠すればいい。模範的形式にしたがっているときに(のみ)、「模範的形式にしたがっているから」それはよいものだ、と述べることは「余分」なのです。

 これは理想論と切り捨てる人があるかもしれませんが、そんなことはありません。これは可能なことです。孫引きになりますが、一つ実例をあげておきます。

私自身も幼い頃、子どもどうしのケンカになると最後にはかならず「チョーセン、チョーセン、帰れ、帰れ」とはやされた。「チョーセン、チョーセン、バカ、スルナ、オナチメシクテ、トコチガウ(朝鮮、朝鮮と馬鹿にするな、同じ飯を食ってどこが違う)」と、近所や学級の子どもたちが大声で歌いはやした。大人たちが教えなくて、どうして子どもがそんな台詞を知っているのだろう?

「チョーセン」とは何のことなのか、なぜ「チョーセン」である自分がこの日本にいるのか、どこに帰れというのか、何もわからないまま、泣くまいとして口をへの字にまげて帰宅すると、何も言わないうちに母はすべてを見通して、無条件に、ただ無条件に抱き締めたものだ。ことの経緯を聞くでもなく、ケンカの理由を問うでもなく、理由の如何にかかわらずケンカはいけないなどと退屈な市民道徳を論すこともなく、ただ無条件に私を抱き締め、母は低い声で私の耳に何度も何度も繰り返した。「チョーセン、悪いことない、ちょっとも悪いことないのやで」。

その母の力で、私はまた、真っすぐに立つことができたのである。

どうして母は、あれほど揺るぎのない態度で「チョーセン、悪いことない」と言い切ることができたのだろうか?自分自身も幼いときに日本に渡ってきて、差別と侮蔑にさらされ、学校にも行けず、朝鮮民族の文化や歴史を知らず、文字すらも読めなかった母が。
http://d.hatena.ne.jp/yamaki622/20080825/p1

 ここに、民族主義が要請する規範化が、ひとかけらでも含まれているでしょうか?もちろん、そんなものはないのです。なくてもいけるし、むしろ、ないからこそいけている。


 僕はこの人がどのように生きてきたか、そこに書かれてある以上には知りません。しかし、ありうるであろうと思うことは、次のようなことです。「わたし」の基盤を探し求める中で、民族も文化も学問も何もなく、ゆえにそれらは基盤になりえなかった。そこで、ある意味では「仕方なし」に、「私が在る」という単純な存在の事実の上に立つことになった。おそらく、そういうことだろう、と想像します。なんにもないとしても、そこには辿り着くことができる、ということです。「確固たる「わたし」」が、「私が在る」ということなら、それは誰にでもあるでしょう。というより、「確固たる「わたし」」しかなかった、ということです。*3

 おそらく、hokusyuさんが言った意味での「わたし」とは違うでしょう。「主体」とでも呼べるような「わたし」なら、ぐらぐらしている人は多いでしょう。でも、僕が問題にしているのは、存在のレベルにある(思考のレベルではない)「わたし」です。だから、(誰でもというわけではないにせよ、少なくとも民族主義の上に立つことができる人であるならば*4)別の道がちゃんとある、ということです。そして、hokusyuさんが言うような意味での主体は、むしろ、そう簡単に「確固たる」ものになっていてはならないのです。それは、異なるあり方への感受性を失わせるからです。*5


 ここでもう一つ述べておきます。民族主義の上に立って戦ってきた人を、無条件に抱き留めるべきではないのでしょうか。もちろん、そうするべきです。その人が在るということ、そのように在ったということ、それは無条件に抱き留められるべきです。しかし、それはその民族主義者としてのありようを批判しないということではありません。もちろん、殊更に面と向かって糾弾しなければならないという必然性はありませんが。

 僕は、民族主義を否定しますし、民族主義者には別の道があると言いますが、具体的なある人に対してどのように言うか/言わないかについては、それぞれの生きられている現場において考えられるしかないことだと思います。単純に、民族主義は否定されるべきであるから、民族主義者は糾弾されるべきという短絡を言いませんし、言っていません。たいていの場合は、ただ、「その人が在る」ということを肯定すればよいのではないでしょうか。それが、その人が自ら民族主義を捨て去ることを可能にするのでしょうから。ただし、その人を民族主義的な言葉で力づけようとはしないでしょう。また、目の前で民族主義的抑圧が演じられる場合には、介入を試みるかもしれません。いずれにせよ、その場でなにをすべきと判断するかは、ケースバイケースです。しかし、ケースバイケースのその決断において、「民族主義は不要」という概念上の整理は不可欠です。

 もちろん、切り捨てたものの中に大事なものがあるのではないか、という可能性は、僕が長いこと考えてきたことです。ハッキリ捨てる方向に踏み出したのは、民族性であれなんであれ、民族主義の上にではなく「そのようにある」という事実の上に置くことができると考えることができるようになったからです*6。ですから、僕への批判者は、そのように置くことができない、ということを論じて見せねばなりません。「民族主義の上でなされたこともあった」、それは知っています。「民族主義に拠らなければできなかった」と言わなければなりません*7

hokusyuさんへ

 http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20090402/p1
 主なところは、本文で応答になっていると思います。その上で、いくつか気になった点を追記します。

 まず、無自覚に前提されている正しさの形式があります。それが他者との出会いによって揺らぎます。そこで、自覚的に正しさを前提に導入するわけです。マジョリティは、無自覚に前提されている正しさを保持し続けています。多くの場合、それを問わずに済む環境にあるからです。そうではないマジョリティもいます。自分たちとは違うマイノリティを発見し、それによって揺らぎ、自覚的に正しさを導入する。つまり、マジョリティには、自覚的な民族主義者と無自覚な民族主義者がいます。後者を「リベラルな民族主義者」と言ってもいいかもしれませんね。いずれにせよ、やってることは排除と同化です。マイノリティはほとんど必然的に揺らがされるので、なるとすれば、自覚的な民族主義者になります。

 そのすべてを僕は批判しています。ですから、民族主義の上に立つ民族アイデンティティについては、僕は危機に晒しています。もし、別のものの上に民族アイデンティティを置き直すことができないならば、それは捨てられることになるでしょう。しかし、「私が在る」ということの上に、民族アイデンティティを置き直せばいいのです。それが可能であるかどうかは知りません。ただ、民族に限らず、なんらかのアイデンティティを獲得しようとする者は、それを他者を抑圧しない基盤の上に作るよう努力する責務があるとは考えます。それが不可能である場合には、潔く捨てる覚悟を持って。捨てられない場合には、決してあなたとわたしは倶に天を戴くことができないのだという諦念を持って*8

 それは、マジョリティの民族主義についても同様です。むしろ、マジョリティの民族主義を批判するときに、その民族主義の上に打ち立てられている民族アイデンティティを危機に晒している自覚がないのなら、それはそれで問題です。

t_keiさんへ

 http://d.hatena.ne.jp/t_kei/20090402/1238674472
 まず、第一の、在日コミュニティを取り巻く非対称性について。民族教育がすぐさま民族主義だ、というわけではありません。そもそも、自分のルーツを知ることそれ自体は、なんらとがめられることではありません。そもそも存在を知らなければ、選択することもできないのですから。あなたの両親は朝鮮半島に生まれ、これこれこういう経緯で日本にやってきて、こう暮らしている。そしてあなたがいる。そういうことを知ることは、むしろ、必要なことです。同様に、文化や言葉について学ぶのも、ある程度は必要なことです。問題は、(何度も言っていますが)それが規範化されるときに生じます。

 関連しますが、第二の多様性の尊重という点について。では、民族性の存在を示すことと民族主義とが区別できるのか、という点に関わります。

人が一定数寄り添い集団を形成したとき、そこにはその集団の歴史や経緯にともなって、固有の友愛の表現であったり、固有の倫理であったり、固有の規範であったりがうまれてくる。ある社会集団では抑圧的に見える規範も、他方の社会集団では親密さの表現としてみなされることもあるだろう。

 もちろんそんなことはあるでしょう。しかし僕が問題にしているのは、たとえばそこに、言葉を話せない、その文化の形式を身につけていない、歴史を知らない人間、しかし、共通のルーツを持つ人間がやってきたときに、その人をどう迎え入れるのですか?ということです。そこで「おまえも身につけろ」と言うか「出て行け」と言うかするときに、問題が生じます。そうではなく、固有の友愛の表現では友愛の表現にならないときに、その表現は見直されるべきなのです。そして、そのような見直しが可能であるということは、民族主義の上に置かれているのではない民族アイデンティティによる、ということです。

人のそのような背景と、それに依拠し「自分たちのあるべき姿」を想像する感覚は、簡単に切り分けることが可能なものではない。簡単に切り分けられる、と思っている人は、実際にはその観念自体が『人のそのような背景と、それに依拠し「自分たちのあるべき姿」を想像する感覚』に、つまり自身の生に基づいているということを見失っているのではないだろうか。もしくは、実際には自明性の中に生きてきて、それを問う必要に迫られることがなかっただけではないのだろうか。

 自明性の中に生きている人でも、問う必要に迫られるときには、迫られるのです。「言葉を話せない、その文化の形式を身につけていない、歴史を知らない人間、しかし、共通のルーツを持つ人間」はそこら中にいますから、ある意味で、いつでも誰でも迫られているのです。ただ、マジョリティはマジョリティだから無視することができますし、マイノリティも、自分たちが相対的にマジョリティである場では無視することができるわけです。そして、民族主義的な応答──同化と排除──に終始するということが可能になっているわけです。自覚的な民族主義者であれ、無自覚な民族主義者であれ、です。

 そして、それが簡単であるかどうかは別にして、切り分けられるということは、本文で明らかにしたとおりです。そして、民族主義者であることに問題があるなら、民族主義者ではないやり方で民族性に関わるやり方を探さねばなりません。

nagonaguさんへ

 http://d.hatena.ne.jp/nagonagu/20090402
 国家主義とは、簡単に言えば、民族主義が要請する規範の制度化です。だから、初期の癌とより進行した癌の違いみたいなものだ、と述べました。つまり、民族主義国家主義の違いというのは、少なくとも今問題にしている文脈においては、大きな違いだとは思わないということです。

 「営為」を「余分だ」として切り捨てたのではありません。「抵抗」は肯定する、と何度も述べています。それは「営為」を切り捨てない、ということです。そうではなく、「営為」の根拠とされた民族主義は「余分」であると述べています。もちろん、民族主義に起因する抑圧も「余分」です。そして、民族主義を取り去って無色透明な個人に依拠しろと述べているのではなく、自らの生きる事実に直接に依拠すればいい、と述べているのです。民族性だって、ある人にはそこにあるのですから。「営為」はそこからでも可能です。だから、民族主義はいらない、と言い切って見せているわけです。

戦後の米軍支配、復帰後の米軍基地の過重負担、そのような軍事植民地化した差別的な状況(いわゆる「日本問題としての沖縄問題」)に対して、国連人権委員会少数民族問題として訴え続ける人々の運動もあります。昨年10月には、国連人権委員会が「琉球民族」をアイヌ民族と同じく先住民として認め、日本政府に対して言語・文化の保護促進を講ずるよう勧告しました。

米軍基地を過重に押し付け続ける日本国政府の行為(マジョリティの差別的行為)に対して、国連という国際社会の場で、少数民族としての沖縄を主張し事態の打開を図ろうとする人々の行為を、私は「民族主義」であり「余分」だとは思いません。

 民族性を擁護する運動と、それを民族主義という基盤の上に置くことは別のことです。民族性の擁護は、民族主義という基盤の上に置かずともできることだし、むしろ、その上に置かないからこそうまくできることです。

 たとえば、その運動を担っている人たちは、規範的な沖縄性なるものを想定し、それを身につけていないことはけしからん、などと言っているのでしょうか。そうであるとしたならば、少なくともその発言に僕は同意しないし、機会があれば反対を表明さえするでしょう。そのことと、文化を擁護することは別の問題です。この発言のような余計なものをもたらすのが民族主義であり、民族主義は余分なのです。そして、個人に依拠して、民族性を擁護することは可能です。

 「個に依拠するだけで安寧としていられるようなユートピアを私たちは生きてはいない」はまったくのウソでしょう。むしろ、個に依拠するしかないような人がいくらでもいます。そして、個に依拠することは、どんな思想よりも多くの人に可能性をもたらす思想です。民族や、立身出世や、学問や、その他様々な基盤に依拠しようとしてもどうしてもできない人にあっても、個という可能性だけは残されています。

 実際には、個以外に依拠するものを何もないような人がいるし、その人たちを支えたのは個それ自体です(安寧としていられたわけではありません)。そして、民族主義はそのような個を抑圧する。それはまちがっています。人間があるから文化があるのであり、文化があるから人間があるのではありません。文化があるからあるように生きている人間とは、無自覚な民族主義者であり、自覚的な民族主義者です。人間があるから文化があることに立ち返ることが、個に立ち返るということです。なぜ立ち返る必要があるか。人間のために文化があるのであって、文化のために人間があるのではないからです。

「○○人であるならば、○○であるべきだ」とするのと同じような強さを、あなたが発する「何をどう言おうと民族主義は余分、個に依拠すればいい」という発言は有しているのではないかということです。

 もちろん、有しています。ただし、僕は、「○○人であるならば、○○であるべきだ」という主張を、その強さにおいて批判しているのではないのです。それがもたらす抑圧において批判しているのです。「何をどう言おうと民族主義は余分、個に依拠すればいい」は同じ強さを持っています。しかし、その主張は正しい、と僕は主張しています。


 最後に、最初の二つの質問に答えておきます。

  1. その視座から沖縄の現在はどのようにみえるか
  2. 沖縄問題などなく日本問題があり続けてるだけではないか

 2については、既に述べたように、日本問題とだけ言ってしまっては見えなくなる問題だと思います。私たちが存在を抑圧する発想を捨てられないことの問題であり、それは「日本問題」ではない、ということです。1については、ですから、米軍基地問題などの個別的な文脈の問題について考えるべきことがないとは言いませんが、その根本原因たる差別性の原因は、2について述べたような問題としてある、ということです。沖縄の現在の問題をもたらしているものは、今回指摘したマイノリティ内の問題も含めて、もちろんパレスチナ問題等々のさまざまな問題も含めて、それらの全体をもたらしている一つの問題です。個別的な問題に対して与えられる解答は、相互に矛盾しないものとして与えなければ勝てない、と考えています。だから、「民族主義を問うていない」人にも、「民族主義の問題」として応答するしかなかった、ということです。

*1:最初の一読で簡単に読み取れることだとは思いません。そのくらいには、通念に反することを書いているという自覚はあります。しかし、このような指摘を踏まえて読み直せば、最初からちゃんとそう書いてあることは発見できると思います。

*2:もちろん、それを出発点として、作り替えていくことは、すべての人の権利です。誰でもが、今ある事実としての自分を出発点にしていいし、そこからどこに向かっていってもいい。ただその過程で、どう他者との折り合いをつけるかについての配慮は必要ですけれど。

*3:そして、探すときに、探す主体が浮かび上がり、それが理性ということです。理性はアイデンティティに先行しています。

*4:たとえば、リストカットするような人は、自らの存在のレベルにおいてさえ確固たる「わたし」を発見できずにいるから、傷をつけるのかもしれません。だから、誰でも可能であるとは言いません。しかし、民族主義を掲げることができる人であるならば、可能なはずです。

*5:ディアスポラ性、と言ってもいいかもしれませんね。もう少しふくらましておくと、この意味でのディアスポラ性は、他者を迎え入れるための必要条件です。ですから、むしろ、マジョリティは、マイノリティに対する贖罪のためにではなく、自らがマイノリティに出会う権利として、「確固たる「わたし」」を拒否する権利を問題にする必要があります。というより、そのように問題にすることができるのです。「わたしのために、マイノリティを黙らせるな」と言うことができるわけです。

*6:むしろ、その方が強くもあると思います。

*7:hokusyuさんの主張はそういう批判に近いものだと思いますが、それについては同意しない旨、本文中に示しました。

*8:たとえば、小児性愛者であるような人は、仮にそうであるしかないとしても、小児性愛者であることで誰かを傷つけることのないようなあり方を模索する責務があります。たとえば、小児性愛者であるにもかかわらず、その欲望を現実にかなえることは断念する、ということによって。もし、それが不可能である場合には、小児性愛者と小児は一つの社会の中に倶にあることができないのだ、と言うほかありません。私たちにできるのは、そうではないあり方が模索されるべきことを示し、それを励ますことです。民族アイデンティティについて言えば、それを民族主義とは無縁なところに置くことは可能だと思いますので小児性愛者よりずっと分がいい問題だと思いますが、本当にそうであるかは、実際にそれをやる人が考えるしかないことです。