モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

個別的/具体的な思考が抽象的思考を支える

 先の記事にお返事をいただいた。>個別的に「人を殺すこと」を思考することは可能か


 まず、結論部について。

 以上を踏まえると、思考を進めるときに、「人を殺すこ」とに個別性を持たせること自体、倫理的に、問わねばならないのではないか。つまり、今まさに私が目の前の人を殺すその瞬間以外に、個別的に「人を殺すこと」を思考することは可能なのか。やはり、それは想像の産物でしかならず、抽象的な「人を殺すこと」でしかありえないのではないか。だからこそ、始点に戻るが、抽象的な「人を殺すこと」には抽象的な「殺すな!」という言葉しか差し返せないように思う。

 想像の産物であることは、「抽象的」であるとは別のことです。それは曖昧さを残していたり、事実と違っていたり、想像を超える余剰を含んでいたりしますが、「具体的」です。イスラエル兵がパレスチナ人の子どもにライフルの照準を合わせるときに起こっていることを「正確に」知ることはできません(そんなこと誰も知らないでしょう)。ハマスの戦士がロケット砲を発射するときに起こっていることについても。しかし、そうしたことについての想像は、曖昧さやまちがいや過不足を含んでいたとしても、「具体的」です。

 そうしたあやまりやまちがいやズレを含んでいるかもしれない個別的文脈に対する具体的想像に即して、普遍的な「殺すな」から引き出される個別的なメッセージを投げかけています。それが、ハマスに対するメッセージとしては、「殺さないでほしい」という形になる、ということです。もちろん、あやまりやまちがいやズレについて問いただすことはできます。ですから、あやまりやまちがいやズレの可能性を具体的に指摘された場合には、その検討が必要なことは認めます。その検討を経て、メッセージは別の形を取るかもしれません。しかし、「抽象的な「殺すな!」」という言葉しか差し返せない」ということではないと思います。

 もう一つ言っておきますと、ここでの「抽象的な」あるいは「普遍的な」意味での「殺すな」は、どのようにして出てきたのか。個別的な状況に対して「殺すな」を言おうとする衝動に駆られるからこそ、それを可能にする普遍的な概念を探すわけで、そうして辿り着くのが「普遍的な「殺すな」」ということだと思います。ですから、僕にとっては、まず最初にあるのは、どうしたって個別的な状況の問題です。

 「人」という概念だってそうです。具体的なAさん、Bさん、Cさんたちがいて、それらの誰をも「殺すな」と思うから、AさんもBさんもCさんも含むような概念が作られて、「人」と名付けられる。元々、そんな風にしてできているものだと思います。存在は言語より先にある、世界3より先に世界1がある、ということです。


 あとは、いくつか、補足的に。

(1)「私たちはイスラエルの何を知っているのか?」について

 とりたてて、なにも知りません。彼らが人間である、ということは知っています(それは実はまちがいだ、という人があれば考えてみますが、たぶん人間でまちがってないと思います)。そして、彼らが同胞であると言うためには、このことを知っていれば十分ではないでしょうか。たとえば、そもそも「過ち」という言葉は、同胞である相手に対してのみ発せられる言葉だと思います。熊が人を襲ったとして、それは問題にされるでしょうが、「熊が犯した過ち」とは言わないと思いますので。さらに、「自分が同じ「過ち」を犯す」とは、とても思えない場合も多々ありますが、その場合でも、相手は「同胞」です。

(2)「それは中立ではないのか?」について

 まず、述べておくと、僕は中立それ自体が問題だと考えているわけではありません。具体的な位置を定めて、そこから発話し、そうした作業を通じて辿り着かれる目標地点は「中立」と呼びうるものでしょう。「正義」とも呼べるでしょうが。僕が目指すのはそういう地点です。

 中立であれ正義であれ、それらについての語り口は、大きく二通りあります。一つは、中立な観点や正義にかなった観点が先に定位されて、そこから導かれる結論は「中立である」、「正義にかなっている」、とする語り口です。こういう語り口は一つ残らずアウト、というのが僕の立場です。そうではなく、個々の「人間の都合」を具体的に記述することから始めて、それを守るために欠かすことのできない条件を明らかにした上で、それを「正義」と名付ける。そして、それは別の人間の「都合」によって批判される。その場合には、生物学的な存在条件に即して、それらの「都合」に序列をつける(つけざるをえない)。これが僕の立場です。

 僕自身は、「中立」という言葉はあまり使いませんが、あえて使うとすれば次のようになるでしょうか。中立とは、(1)目指されるべきものであって、かつ、(2)到達したことを証明できないものである。だから、中立を自称することは、中立性のもつこういった性質と矛盾するから批判される。そういうことです。ただし、ここで、中立性という概念は拒否されていません。