モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

「殺さないでくれ」の意味

 「「殺すな!」の空虚さについて」@キリンが逆立ちしたピアス
 これと、コメント欄でのやりとりに応答する形で。

さて、そうであるならば、mojimojiさんは「(イスラエル人を)殺さないでくれ」というお願いは、どこから生まれるのですか?
私の場合は、先に「殺すな!」という理念があり、そこから派生的にハマスにも「殺すな!」と言うしかなくなる、という議論を展開しました。しかし、mojimojiさんは「殺すな!」とは言わないという。
自分の身に危険が及ばないのに、なぜ他人の殺人を止めようとしているのですか?つまり、mojimojiさんは、なぜイスラエル人に代わって、イスラエル人の命乞いをするのですか?

私には、それは結局、mojimojiさんが想像力によって、パレスチナで起きていることを、他人事ではないとし、イスラエルを自分の陣営とみなしているからではないかと考えられます。すなわち、イスラエル人が殺されることを、同胞が殺されることとみなしていると。そこには、mojimojiさんの、自分とイスラエル人の同一化があるように結論付けてしまうのですが。

 僕にとっての「殺すな」は、すべての人に対して誰であっても「殺すな」です。もし、普遍的な命令としての「殺すな」から、個別文脈における命題を引き出すのだとすれば、すべての個別的文脈における「殺すな」を同時に引き出すのでなければならない。しかし、僕たちは、個別的文脈について話をするときには、一つずつ話すことしかできない。ここに問題が生じます。

 個別的文脈の一つを取り出して、この普遍的命令を適用するときには、「殺すな」では正確な言い方になりません。同時に履行されるべきたくさんの命令のうちの一つを取り出して、他に先んじて履行させようとしているのですから。だから、「殺すな」では、やらずぶったくりになってしまうではないですか。だから、「非難する資格がないにも関わらず非難するのであり、その資格があるかのように非難しない」ということを明確にした、別の言い方であるべきと思います。そして、この場合の「殺すな」は、「あなた自身が、あるいは、あなたにとってかけがえのない大切の人が殺されたとしても、その殺した相手を殺すな」なのです。だから、どうしても「殺さないでくれ」になってしまいます。普遍的な命令としての「殺すな」を個別的文脈に持ち込むとき、その表現をそのままには使えない、ということです。「普遍的理念を掲げる事は、それに直接手を触れて掲げるのとは異なる」というのは、こういう意味です。

 そして、以上の説明から明白なように、僕が「(イスラエル人を)殺さないでくれ」というのは、普遍的な命令としての「殺すな」を持っているからです。「殺すな」があるからこそ、「殺さないでくれ」が出てきます。その意味で、僕の中にも、普遍的な命令としての「殺すな」はあります。

 普遍的命令が守られていない世界で、普遍的命令を突きつけるということは、こういうことだと考えています。これは、font-daさんの紹介してくださった「殺すな」の理念に対する批判でもあるかもしれません。


 ちなみに、「イスラエル人が殺されることを、同胞が殺されることとみなしている」は、まちがってはいません。ただ、正確に言えば、「同胞が殺されている」のみならず、「同胞が殺している」ということでもあります。ハマスのロケットについても、イスラエル空爆についても、です。同一化については、同一化という言葉が何を意味しているか正確にはわかりかねますが、少なくとも言えることは、仮にイスラエル人との同一化が僕にあるとすれば、同じくらいにはパレスチナ人との同一化もあるであろう、ということです。