モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

「決断」の暴力に抗するからこそ、こう述べている

 「決断」の暴力に抗する@過ぎ去ろうとしない過去
 こういう内ゲバなら歓迎ですが、もちろん、内容には承服していません。

慎重に語るということ

なるほど、パレスチナ問題の解決のためには究極的にはシオニストとの交渉は不可欠かもしれません。シオニストの殲滅という、ともすれば反ユダヤ主義的な解決策をわれわれが選択しないならばなおさらです。ですが、われわれ(日本人)は結局はパレスチナ問題において他者でしかない。もちろん、当事者でなければ問題について意見を述べてはならないということではありません。ただ、われわれが他者であるならば、その語りかたには注意を払わなければならない。

あるいは、小田実の「殺すな!」はなぜ普遍的な理念たりえたかというと、そのスローガンは彼のベトナム戦争反対運動に対する徹底的なコミットと日本国憲法のラディカルな読解による「政治的」産物に他ならないからであって、たとえば、文脈背景は分からないがとにかく殺し合いをやめよというような空虚な「殺すな!」ではない。ぼくには、mojimojiさんが行っている「シオニストと交渉せよ」という主張は、この空虚な「殺すな!」に接続しかねない危うさを持っていると思います。「シオニストと交渉せよ」が正しいとしても、われわれにそれを言明させたがるような欲望というものは、果たして「観客席」的なものなのではないでしょうか?

 僕はこう述べてきました。ハマスのロケットが問題であるとして、イスラエルにも、イスラエルに加担している私たちにも、ハマスのロケットを非難する資格はない、と。ハマスに「殺すな」とは言っていません*1。むしろ、私たちは殺されても文句をいえませんよ、と言い続けてきました。また、「文脈背景は分からないがとにかく殺し合いをやめよというような空虚な「殺すな!」」というようなことを、僕は一度でも言ったでしょうか。一度もありません。それどころか、そのような発言を名指しで批判してもきたはずです。それは、圧倒的な非対称性があるからです。

 「その語りかたには注意を払わなければならない」、もちろん、そのとおりです。そして、僕はこれまで実際に注意を払ってきたはずです。まして、このような言明が「観客席」的なものへの免罪符になっているでしょうか?「殺されても文句は言えませんよ」とまで言っているのに。シオニストとの交渉を持たなければならない、僕はそう述べています。これだけを切り離して一般論のように扱えば、「空虚な「殺すな!」に接続しかねない危うさ」は、もちろん、あるでしょう。しかし、既に述べたように、そのような接続をさせないように、いろいろと述べてもきているのです。

 つまり、hokusyuさんが言うような慎重さを、僕は示してきたつもりでいます。ですから、hokusyuさんが僕を批判するのであれば、「慎重さが必要だ」という一般論では足りません。僕の書いた文章と、その文章が書かれた文脈を分析した上で、実際に「空虚な「殺すな!」」に接続させてみせなければなりません。つまり、論証しなければなりません。しかし、その論証はなされていません。

普遍的理念と具体的状況

 普遍的な理念は大切ですが、具体的状況から出発しない普遍的な理念は空疎です。……

 そのことは知っています。そして、それを言い続けてきました。そして、もう一つのことを言っています。普遍的理念に絶えず立ち返ることを忘れた状況論は危険である、と。立場を変えて同じことをしでかしてしまう危険と隣り合わせだからです。

 もちろん、この危険は、とりあえず、差し迫ったものではありません。圧倒的な非対称性があるからです。状況論としてパレスチナの側に立つならば、とりあえずは、事態をよい方向に動かす力になるだろう、と考えています。hokusyuさんが言うように、「一方にたいしてのみ非対称な暴力がまかりとおっている現状があるならば、「まず」そこを変えなければいけないのです」から、とりあえずは、それでいいと思っていました。もちろん、いずれはこの点に気づく必要があるでしょう。しかし、そもそもの出発点が不正義への怒り、パレスチナ人への共感、そういうものから出発している人たちであるならば、結局は気づくはずのことだろうと思っていました。ですから、僕からこの点を問題にしたことはないはずです。

 ただし。少なくとも、村上春樹がしたように、シオニストに対して語りかける行為そのものを許しがたいとして批判するのであれば、黙っているわけにはいかないでしょう。シオニストに語り掛けることは必要なことだからです。シオニストに語りかける行為そのものが問題になっていなかったときには、それに対する批判もありませんから、このことは論点にならなかったのです。しかし、村上春樹のスピーチによって、私たちはこの論点に直面することになりました。ですから、これまで避けていた論点に即して、村上批判がなされ、また、村上を擁護する僕への批判がなされたわけです(hokusyuさんによって、ではなく、tmsigmundさんや、そこに賛同する何人かの人々によって、ですが)。ここまで来たら、さすがに黙っているわけにはいかないでしょう。

 ついでに言えば、ここしばらくの一連の顛末を見た上で、一つ考えなければならないと思っています。つまり、これまで僕は、「「まず」そこを変えなければいけない」から、「とりあえずは、それでいいと思ってい」たわけですが、本当にそれでよかったのか、と。本当は、この点をもっと積極的に取り上げなければならないのかもしれません。

決断に陶酔しているのはどちらか

シオニストと交渉しなければならない」ということを出発点にするというのはある種の「決断」です。そのこと自体が問題なのではない。しかし、その決断をもって「本気でパレスチナに寄り添う」とするのは、―それを行うことで「観客席」にあがれるような―「決断」にたいする陶酔ではないでしょうか?

 僕はそれを出発点にしたのではなく、不可欠の要素の一つとして提示しました。僕自身は、イスラエルによる占領を問題にすることこそ、まず、出発点にしてきたはずです。村上春樹はそうはせず、シオニストに語りかけることを出発点にしました。ただ、僕においては、どちらもあっていいし、むしろ、どちらも必要だ、と考えています。その点で言えば、むしろ決断していない、のです。決断しているのは、むしろ、僕や村上に対する批判者の方でしょう。つまり、イスラエルによる占領を問題にすることを出発点にしなければならない、と述べているのですから。陶酔の危険は、むしろ、そこにこそあると思います。

「結局パレスチナをどうしたいの?」という問いは、アイヌの人々に「結局どうしてほしいの?」という問いと同様に暴力となっています。……暴力的な問いが前提としているものは何か。「観客席」です。暴力的な問いは常に(具体的状況にたいするコミットメントを欠いた)「観客席」から発せられます。だとするならば、まず「観客席」から彼らをおろさない限り、問いは真に「建設的」なものとなりようがありません。

 僕は「結局パレスチナをどうしたいの?」というあいまいな問いなど発していません。解決したいに決まっているだろうし、それを前提して、僕はもっと具体的なことを聞いたのですから。すなわち、「イスラエルの生粋のシオニストを、語りかけるべき相手であると認識していますか?」と問うたのです。Yes、Noで答えられる問題です。

 ここをもう少し丁寧に考えてみましょう。「どうしたいの?」と問うとき、問うその人は「どうしたいか」を語りません。この問いは、沈黙を強要し、それによって暴力的に作用するのです。しかし、僕が聞いたのは、そういうことではありません。すなわち、「イスラエルの生粋のシオニストを、語りかけるべき相手であると認識していますか?」と問うたのです。そして、僕自身は、「語りかけるべき相手である」と認識しており、それも含めて、最終的には「解決したい」ということを明言しています。もちろん、その問いは暴力的ではないとは言いませんが、「観客席」の人々のそれとは区別していただきたい、とは思います。

抑圧者であるという悲劇

 ところで、もちろん、イスラエル人にとって、パレスチナ人を殺し続けることは悲劇です。殺すことに限りませんが、誰かを傷つけることは、傷つけるその人にとって、悲劇です。自分がそれをなしたという事実を直視するならば、その取り返しのつかなさに対する苦悩は悲劇でしかありません。逆に、直視できないならば、偽りの生を生きるしかないそのこと自体が、やはり悲劇でしかありません。

 殺されるのと、傷つけられるのと、「どちらがより悲劇か」というような、無意味な比較はしません。実際、僕は、殺すのも殺されるのもイヤです。傷つけるのも傷つけられるのもイヤです。どちらか選べと言われれば、どちらもイヤだと言うでしょう。それでもどうしても選ぶなら、殺す側、傷つける側を選びそうですが、そこまでねじ込んで答えさせることに何の意味もないでしょう。いずれにせよ、抑圧者であることは、悲劇でしかありません。

 ですから、シオニストというのは、本当に、度し難い「バカ」だと思います。もちろん、「ハマスを支持すると空爆されるに決まっているのにハマスを支持した「バカな」パレスチナ人。しかし、彼らをたんに「バカな」奴らとして切り捨てるのは正しくない…」というのもわかります。しかし、それは僕が述べていることと両立する話です。逆ならば、ではなく、両方とも、わかる話です。

*1:もちろん、ロケットを撃つことは、政治的にも軍事的にも倫理的にもまちがっています。そう述べました。ただし、ハマスに向かってそれを言う資格が私たちにないだけです。ですから、ハマスに「殺すな」とは言えませんし、言いません。「殺さないでくれ」なら言うでしょう。