モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

一度に一つのことしか話せない

 いろんな問題があって、それらすべてが問題として取り上げられなければならない、とは思う。しかし、たとえばパレスチナ問題について口を開いた僕が、なぜ他の問題では口を開かないのか、みたいな非難を受けることは時々あるが、結構ウンザリする。そのウンザリ感については、昔、次の記事の中でも触れた。>「排外主義者、あるいは日曜サヨク」

Aという問題で掲げた倫理を、Bという問題では掲げていない、というのであれば、それはまだ仕方のないこともある。あらゆる問題にコミットして、そこで掲げられるべき倫理を決定する、というわけにはいかない。十分には知らない問題、立場上見解を鮮明にできない問題、そうしたことはいくらでもある。しかし、その場合には、Aという問題で掲げている倫理を、Bという問題では掲げないのかと、ただ、たずねてみればいい。オモテで語ることに差し支えがあるなら、相応の私的な領域で確認すればいいこともあるし、あるいは、ただその人の普段の言動や態度から察して信頼するだけでもいい。──ただ、Aという問題で掲げた倫理に対して、Bではその正反対を主張していた、というのであれば話は別だ。「すべての問題にコミットできない」ということと、「首尾一貫したコミットをしていない」ということとは別だ。

 
 自分でも少しどうかと思うくらい、いろんな問題に首をつっこんで書き散らかしてはいる。一つの問題に特化した深い見識を持つ人は、いろんな分野にたくさんいる。それとは別に、いろんな分野のできるだけ多くに同時にコミットして、それらが一つの普遍的な問題の一部であることを示す、というのも大事なことだろうと思った*1。だから、自分があまり詳しくないことについても、一言くらいは言えるように少し調べてみて、なにかは言っておく、ということを意識的にやってきた。

 ただ、それにも限度はある。これだけやってみても、まだ一言も言及したことのない問題の方が多いくらいだ。僕自身でも、それなりの時間を割いてコミットしている問題が2つ3つはあるが、それらについてさえ、いくつかは少し関わりを縮小して、力を集中しなければならない、という感じも強くなってきている。時間と体力がなければコミットはできず、時間も体力も有限な資源だ*2。そのことは厳然としてある。当たり前のことだ。


 同じことを感じる仲間は何人もいて、「Aという問題にコミットしながら、Bについては何一つやったことなかったりするよね」みたいなことは幾度も話題になった。だからダメだといわれれば、できることなどなくなる。それでもやる、とすれば、どういう理屈か。今のところの結論としては、少なくとも「誰かの尊厳を否認するようなことは語らない」、「少なくとも一つのことにはコミットする」、この二つくらいは守れるかな、というところだ。

 だから、「○○では発言したサヨクが、別の△△では沈黙している」みたいな非難を読むと、そこで取り上げられている問題へのスタンスには強く賛同するけれども、少なくともそこで用いられている論法には拒否感を感じる*3。何度でも強調しておくが、ハッキリと排外主義を口にすることの問題と、ある問題については沈黙していることの問題を、一緒にするな、と言っておきたい。

 以上のことから、次のように考える。問題にされるべきは、一貫して人間の側に立って発言しつつ、しかし、すべての問題に言及しているわけではない誰かではない。第一に、明示的に排外主義を口にする人間が、第二に、少なくとも一つ以上のことにコミットしていない人間*4が問題にされるべきである*5


 一つ注意をしておくなら、沈黙が問題ではない、と述べているのではない。沈黙は、少なくとも黙認であり、そこにある不正義を止めることにはならないだけでなく、助長することでありえる。それはもちろん、そのとおり。ただし、だからといって、コミットを支える時間や体力が有限な資源だ、という事実が変わるわけではない。目の前であれば「やめろ!」という一言だけで意思表示することも可能だが、言葉の中である論点を取り上げて問題を指摘するためには、準備と構想と実際の作業にそれなりの手間隙がかかる。ある具体的な場面での沈黙ならともかく、沈黙を一般論として問題にするのは、この事実を無視することでしか成立しない。ゆえに、賛同もできない。

*1:もちろん、専門特化する人がいるからこそ、比較的短時間で問題の基本構図を把握することが可能になっているわけだから、一つの問題に深くコミットする人たちが先に必要であることは言うまでもない。

*2:ついでに言えば、金も必要だから、その金の工面も考える必要がある。

*3:少なくとも、違和感、と表現するには強すぎるウンザリ感がある。

*4:自分の生存と生活が危機に陥っている人は、単に生き延びるための努力をすることが、その人自身の危機という問題へのコミットであるだろう。少なくとも、喫緊の窮地にあるのではない人間については、第一に「知る努力」が、次にそれを周囲の人間に「伝える努力」が、さらに可能なら、その先になんらかの努力が、なされればいい。

*5:明示的に排外主義を口にしている人間については、具体的なその人に対して批判することができる。ただし、第二の人々を問題にする場合には、同じようにはいかない。誰がどんな問題にどんなコミットをしているか/していないかを知りうる人間はいない。それは個人的な関係の中で限定的になされるか、そうでなければ、マスに対して一般論として訴えることになる。