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モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

本気でパレスチナに寄り添うつもりなら

【末尾にブコメへのレスを追記しました。】

 村上春樹が誰に向かって何を言ったのか。この点を明瞭に押さえておく必要があるでしょう。単に、「イスラエル人に対して語った」というだけでは、十分ではないでしょう。彼は、ガザの攻撃も含めてイスラエルの政治的正当性を疑っていない人に対して、政治の一つ手前にある前提について語りました。彼は、正真正銘、生粋のシオニストに向かって、倫理を説きました。そのことの意味を、考えておきます。

シオニストに倫理を説く」ことの必要性

 シオニストに対して、倫理を説く。その必要性は明瞭だと思いますが、確認しておくべきことではあるようです。基本的なことから確認しましょう。パレスチナ問題は、いかにして解決されるのでしょうか?イスラエルの占領終結によってです。その後、どんな状態が待ち望まれているのでしょうか?イスラエル人とパレスチナ人がともに暮らす一つの国が形成されることです。

 言うまでもなく、イスラエル人とパレスチナ人が一つの国に暮らし、そこで殴り合っていることを望んでいるのではありません。そこで、平和的に共存している状態が、待ち望まれているのです。もっとハッキリと言えば、今はシオニストであるような誰かと、その人たちによって踏みつけにされ続けてきた誰かが、平和的にともに暮らす一つの国を形成する、ということです。

 僕は、「本気でイスラエルがかわいそうだと思うなら」の中で、イスラエル人はパレスチナ人との共存の道を選ぶしかない、結局他の道などない、そのように述べました。同じことは、パレスチナ人にも言えます。現在、あの地には、数百万のユダヤイスラエル人が住んでいます。パレスチナ問題の解決とは、その人たちには出て行ってもらうことでしょうか?言うまでもなく、否、です。それでは抑圧者と被抑圧者が逆転しただけ、問題の解決とは呼べないでしょう。

 このことから明瞭に導けることは、次のことです。今はシオニストであるような誰かに、シオニストであることをやめるように呼びかけなければなりません。政治的な問いである以前の、倫理的な問いとして、シオニストに問題を提示する必要があるのです。


 別の側面からも考えてみましょう。イスラエルに対する国際的非難が高まり、その圧力によって、占領政策が終了したとしましょう。南アフリカはそういうケースだったかもしれません。それもまた、一つの前進ではあると思います。今の状況が続くよりは、たとえ圧力によるのではあれ、占領が終結することはよいことだと考えます。これは、一つの政治的な解決です。しかし、それで終了では決してない、ということを思い出さなければなりません。

 占領が終結したその時点から、イスラエル人とパレスチナ人は、ともに暮らす一つの国を形成するための努力を開始しなければなりません。それはつまり、今はシオニストであるような誰かに対して、シオニストであることをやめるよう、呼びかけることです。占領政策の中で行われた不正義を認め、償いと補償が行われねばなりません。これは、倫理的な解決に向けたものです。

 倫理的解決は、おそらく、不可能です。不正義の告発と、償いと、補償は、完璧に行うことはおそらく不可能でしょうから。それでも、多大な努力を払う必要があります。そのためには、私たちは完全な倫理的解決の可能性を、少なくともイメージとして持ち、そこへ向けて最大限前進しなければなりません。これが、エルサレムシオニストに対して倫理を説かねばならない理由です。政治的解決は、倫理的解決の代わりにはならないことを思い知るべきです。

 排外主義者に倫理を説くことの空しさならよく知っています。しかし、その空しさを、説くことを放棄する理由にしてはならないことも、よく知っているつもりです。結局のところ、相手を根絶やしにするのでないならば、私たちはともに暮らすしかないのです。


 このように理解するならば、父のエピソードが言わんとしていることは、明瞭だと思います。政治以前の、加害者における倫理的なものの発露について、村上は語っています。村上の父が捧げていた祈りは、言うまでもなく、政治的には何の意味もありません。しかし、逆に次のように問うべきです。私たちが政治的責任の履行を求めるとき、たとえば戦争責任を認め果たすよう求めるとき、私たちの行動は、私たちの中の一体なにに促されているのでしょうか?それは、村上の父を祈りに駆り立てたのと同じ感情でしょう。

 たとえば、次のように考えてみましょう。私たちが、国際社会の外圧に屈するような形で、戦争責任を認め、補償を実施しようとするとします。それは、責任が放置されているような状況よりはずっとマシでしょう。しかし、それで終りでしょうか?そんなはずはありません。政治的解決を求めるだけでは足りないことがあります。もちろん、倫理的解決が完璧に果たされることはないでしょう。しかし、私たちは、それを明瞭にイメージできなければなりません。少なくとも、それを求めなければなりません。

シオニストの言葉で語る

 さて、ここでtmsigmund氏の文章を問題にしたいと思います。> http://d.hatena.ne.jp/tmsigmund/20090223
 どうしてtmsigmund氏と僕とで、ここまで読みが違ってしまうのでしょうか。検証しておきます。村上のスピーチについては、次の訳にしたがいます。>http://anond.hatelabo.jp/20090218005155


 tmsigmund氏は、村上は国民国家を明瞭に批判していないとして、次のように述べます。

村上は「わたしは日本人であるけれども(あるからこそ)、日本国家が過去に行なった戦争犯罪や国家暴力を批判しており、その上で同じようなことをしているイスラエル国家を非難する」と言わなければなりませんでした。

 自分にわかるように言えよ、という要求は正当だと思います(もちろん、要求どおりに応えなければならない、とも思いませんが)。ただし、自分にわかるように言わないのであれば、どんな歪曲でもしますよ、というのはおかしいでしょう。

 村上は、こう述べています。「どんな国も支援しません」。つまり、日本国家をも支援しない、ということです。さらに、こう述べています。「どんなに壁が正しくてどんなに卵がまちがっていても、私は卵の側に立ちます」。「この暗喩の意味とは?ある場合には、まったく単純で明快すぎます。爆撃機と戦車とロケット弾と白リン弾です」。イスラエルのガザ攻撃を明瞭に非難しています。

 tmsigmund氏が、それを読めなかった、というのはかまわないと思います。しかし、このように読みを示しました。いかがでしょうか。お願いしたいのは、もし以上の読みに反対されるのであれば、以上の部分に矛盾するようなテクストをきちんと示して欲しい、ということです。上記の引用を無視してよいとする理由を示して欲しい、ということです。tmsigmund氏において、そのような作業は、まったく、なされていません。その読みを支えるものは、時折表明されている村上春樹への不信感以外には提示されていません。

状況をよく考えてみてください。村上は、イスラエルの為政者とそれを選んだ国民を前にして、かれらに向かって、語りかけているのです。今まさにアパルトヘイトにも似た体制によってパレスチナ人を隔離弾圧し、ガザにたいしては無差別爆撃と民衆虐殺を行なっているのに、なぜその責任の所在を明確にしないのですか。

 責任の所在は明確にされているでしょう。「壁」を非難し、「爆撃機と戦車とロケット弾と白リン弾」を「壁」であると名指しし、それは「システムである」と述べた上で、次のように述べています。「システムが私たちを食い物にするのを許してはいけません。システムがひとり歩きするのを許してはいけません。システムが私たちを作ったのではないです。私たちがシステムを作ったのです」。責任の所在はまったく明瞭ですよね。


 では、どうしてこのような語り口になるのでしょうか?「占領は不正義だ」と、どうして明確に言わないのでしょうか?それは、それがちっとも明確ではないからです。つまり、村上が語りかけている相手は、最悪のシオニストに分類すべき人たちです。その人たちにおいて、「壁」の正当性はまったく明瞭なものです。「不正義だ」ということを述べるだけではまったく足りません。「不正義だ」ということを論証しなければならないのです。

 村上は、シオニストの現実認識を出発点にして語っています。だから、「どんなに壁が正しくてどんなに卵がまちがっていても、私は卵の側に立ちます」、なのです。シオニストにおいて、「壁は正しい」なのです。村上は、正義の文法を使わず、「卵」が存在している事実性に立脚しようとしています。僕が「正義」という単語を使うときに考えているのは、まさに、ここで村上が語っている「卵」の論理です。「卵」は正義の暗喩であり、正義は「卵」の暗喩なのです。人間がある、ということに立脚した正義です。それを、シオニストの正義に対抗させるためには、正義という単語を一旦外さなければなりません。しかし、語られるべきことは、ちゃんと語られています。

このこともmojimojiさんのおっしゃられることにとりあえず同意しましょう。村上が強調しているのは、「イスラエルパレスチナ」という構図には収まらない、「犠牲者(弱い立場)」への支援だと。

しかし、それはあまりにも現実的基盤を欠いた、身勝手なとらえ方ではないでしょうか。「エルサレム賞」に出席のうえ受賞してそれを言う時、いったいどんな「イスラエルパレスチナという構図には収まらない犠牲者(弱い存在)」が呼びかけられているというのでしょう。パレスチナ民衆とユダヤイスラエル人が、同じ「犠牲者」として、イスラエル国家(壁)への抵抗のために連帯しているとでも言うのでしょうか? イスラエル国内のアラブ系の市民がそのような人でしょうか。しかし、「システムが私たちを作ったのではないのです。私たちがシステムを作ったのです」などという村上の発言の意味するところが、mojimojiさんがおっしゃるようなことだと、彼らが聞かされたら、「作ったのは、おまえたちだろ!『私たち』とか言って勝手に一緒にするな!」と、怒るに決まっています(「弱者を代弁している」とかしょうもないこと言わないでくださいね)。

 この部分は、村上がイスラエル人の中で平和運動をしている人でさえなく、生粋のシオニストであるような人を中心に据えて語りかけている、と理解するならば、まったく違う読みになるでしょう。「私たち」とは、基本的には、村上春樹ユダヤイスラエル人であり、抑圧者の血を引く自分とあなたがた抑圧者、ということでしょう。

 たとえば、誰かが抑圧されているときに、それを護ろうとする人は、抑圧者の言葉で抑圧者に向かって語りかけるということがよくなされます。それは、抑圧者の認識を前提する、ということではありません。当然ですよね。しばしば、抑圧者の言葉では足りないことがあるから、新しい言葉が作られることがあります。しかし、抑圧者の言葉で語るということが一番最初の基本のところにあるのです。それは抑圧者の同意と共感を獲得することを目指すからです。

 そもそものシオニストの現実認識が、私たちの考えるような現実的基盤を欠いているのです。シオニストが欠いているものを前提した語りがシオニストに向けた語りになるでしょうか?場合によってはなりえます。仮に、村上がtmsigmund氏が言うような言葉遣いでスピーチしたとしても、僕はそれを支持したでしょう。しかし、村上は、それよりもむしろ、シオニストの言葉で語りかけることを選んだ。それを否定する理由もまた、ないと思います。

シオニストの「父親」を語る

 村上は、こう述べています。少し長く引用しましょう。

 昨年私の父は90才でなくなりました。彼は元教師でたまにお坊さんとして働いていました。彼は大学院にいた時、徴兵され中国に送られました。戦後生まれの子供として、父が朝食前に長く深い祈りを仏壇の前で捧げていたのを目にしましたものです。ある時、私がどうしてお祈りをするのかたずねたところ戦争で死んだ人々のために祈っていると答えてくれました。

味方と敵、両方の死んだ人たちすべてに祈りを捧げていると父はいいました。仏壇の前で正座する彼の背中をながめると、父にまとわりつく死の影が感じられるような気がしました。

父は亡くなり彼の記憶も共に消え、それを私が知る事はありません。しかし父に潜んでいた死の存在感は今も私の記憶に残っています。それは父から引き出せた数少ない事のひとつであり、もっとも大切な事のひとつであります。

 これについて、tmsigmund氏はこのように述べています。

エルサレム賞」のスピーチに、イスラエル批判とそのための日本批判を盛り込むなら、「われわれ日本民族は、国家の近代化を進める上で、近隣諸国を植民地にし、戦争を仕掛け、多くの人々をひどいやり方で虐げ、殺してきました。わたしの父親も戦争に行き、何人もの中国の人々を殺したのです」と言うほかないところを、ただ単に「(父親は)味方と敵、両方の死んだ人たちすべてに祈りを捧げていました」というのですから、これはまったく奇妙な振る舞いです。だったら、何のためにそんな話をするのか? 結論としては、前回のエントリーに書いたように、「自分の父親や兄弟や子供が、パレスチナ人を殺していることに気づきながら、それを見ないよう知らないよう話さないようにするイスラエル人」への「深い共感」のあらわれだということになるわけです。

 さて、村上は何事かを曖昧にし、ごまかし、隠蔽しようとしたのでしょうか?僕はまったく逆だと思います。


 村上が述べたことは、加害の事実が、加害者とその関係者の間で、どのように共有されるか/されないかについての、極めて明瞭な描写なのです。そこに加害の事実が示唆されていることは明瞭です。「死の影」。これは殺害の暗喩なのでしょうか?逆でしょう。加害者とその関係者において共有されるイメージの直接表現なのです。シオニスト側から見た場合には、「死の影」こそが明瞭な事実であり、伝えられるパレスチナ人の死は、その暗喩でしかないのです。シオニストの生を生きるとは、つまり、そういうことです。

 ですから、「「自分の父親や兄弟や子供が、パレスチナ人を殺していることに気づきながら、それを見ないよう知らないよう話さないようにするイスラエル人」への「深い共感」のあらわれ」という読みは、まったく正しい読みでしょう。僕もそう思います。しかし、その含意は、tmsigmund氏の理解するところとは、まったく正反対ですが。


 もちろん、村上は、シオニストの責任を隠蔽するつもりなどないのです。再度述べましょう。「壁」は非難されるべきであり、「壁」とは「爆撃機と戦車とロケット弾と白リン弾」であり、それは「システムである」と述べた上で、「システムが私たちを食い物にするのを許してはいけません。システムがひとり歩きするのを許してはいけません。システムが私たちを作ったのではないです。私たちがシステムを作ったのです」と述べたのです。何を命じているかはまったく明らかでしょう。

 村上は、政治ではなく、倫理について語っています。朝食後に街に出て、戦争責任を追及するビラをまく前の(村上の父がそんなことをしたとは聞いてませんし、多分してないでしょうが)、朝食前に捧げる祈りについて語っています。これは、「ビラをまく」行為の動機、前提となるものです。イスラエルの占領終結が、終結の前であれ後であれ、いずれは立脚しなければならないところの前提について語っているのです。そして、それは語られるべきことであり、公の場で語られることの少なかったことであり、今回村上はそれを語りにいった、ということです。

本気でパレスチナに寄り添うつもりなら

 僕とtmsigmund氏の解釈は似ても似つかないし、評価も正反対です。「シオニストの言葉で語る」、「シオニストの「父親」を語る」で具体的に検討したことを踏まえて述べますが、tmsigmund氏は、村上春樹に対して以前から持っていた不信感を前提にして、村上のテクストを読んでいます。そのことは、まぁ、いいでしょう。しかし、テクストの中に書かれてあることさえしばしば無視していることは、解釈としては致命的な欠陥です。その意味で、tmsigmund氏が言う意味での操作性というのは、存在していません。

 もし、僕への再応答がありうるなら、次のことをお尋ねしたい。第一に、僕の解釈に対して、具体的なテクストを指示して、そのようには解釈できないことを示してください。解釈である以上、当然のことだと思います。


 そして、第二に。こちらの方は決定的に重要であり、tmsigmund氏のパレスチナ問題に対するコミットメントの意味を、根本から問う問題です。第一の問いはスルーしていただいてかまいませんが、こちらは、どうか時間をかけて考えていただきたい。答えなくてもいいです。とにかく、考えていただきたい。僕は、占領から目をそらす親イスラエル派に対して批判したのと同じ疑問を、一部の親パレスチナ派の人に対して持っています。すなわち、tmsigmund氏は、イスラエルの生粋のシオニストを、語りかけるべき相手であると認識していますか?ということです。シオニストに対して語りかけること抜きに、どんなパレスチナの未来を描きうると思っているのですか?ということです。

 もし、語りかけの必要性を認識しているならば、エルサレムの地を踏み、顔を見て話すことの意義を、頭から否定しさることはできないはずです。最低でも、エルサレム賞に対する加担との比較考量がなされるべきです。が、そんな比較はなされた形跡がまったくありません。万が一、シオニストに語りかける必要などそもそもない、とお考えなのであれば、それは、パレスチナシオニズムの立ち上げに他なりません。それが「パレスチナの側に立つ」ということの意味なら、僕は絶対にパレスチナの側には立ちません。あくまでも「卵」の側に立つでしょう。tmsigmund氏も、その道は引き返すべきです。


 本気でイスラエルがかわいそうだと思うなら、占領政策を不問に付してはなりません。
 同様に、本気でパレスチナに寄り添いたいと思うなら、シオニストシオニストであることをやめるよう呼びかけることは、絶対に必要なことのはずです。もし、「あんな連中と一つの国に暮らせるはずがない、だって、あんな酷いことをされてきたんだぞ」とパレスチナ人が言うならば、私たちは、それに反対しなければならないのです。その声を抑圧してはなりません。しかし、ともに暮らす以外の答えはないのだということを、少なくとも私たちは、意識している必要があります。たとえ、パレスチナ人から非難されたとしても、です。*1

追記

 13:00頃、あちこち不明瞭なところを補うよう、追記しました。

追記 2009/03/02 ブコメへのレス

id:F1977さん 抑圧されている側には、ただのモラル以上のウルトラモラルが必要とされます。ただの「卵」のように単にモラリスティックであれば事足れりという訳にはいきません。そんな事に無邪気に驚いている「卵」ではないのです。

 そのとおりです。次の二つを区別してください。「被抑圧者は(抑圧者は要求されなくてもよい)ウルトラモラルが必要である」。「被抑圧者が立脚すべき武器はウルトラモラルである」。後者については、サイードもそのように述べていると思いますし、自分で考えても、軍事的にも政治的にも倫理的にもそれ以外ありえない、と思います。同時に、前者のように、抑圧者側の責任を不問にしたまま被抑圧者のみにモラルを要求する言説があることは知っていますから、常々批判しているところです。ただし、そのことは、「被抑圧者が立脚すべき武器はウルトラモラルである」を批判するのとは違う話です。

id:hituzinosanpoさん ハルキのスピーチを擁護するのは「著名人」がこちらの要求に応じてくれて「うれしい」。「日本人が」いいこと いった。えらい。という感覚のように感じる。モジモジさんが本気なのは わかる。それだけに残念。

 これだけ言葉を尽くしていろいろ書いてきて、この期におよんで「「著名人」がこちらの要求に応じてくれて「うれしい」。「日本人が」いいこと いった。えらい」などと要約されるという事実に愕然とします。シンプルにこう返しておきます。その要約はまったく不適切です。いくらか書いておきます。

 まず、「著名人」。元々僕が誰かに(誰と特定しない全体に)何かを要求するとき、その人が著名人であるかどうかは関係がありません。シオニストを前にして、なにも言わずに済ませるのではなく、一つでもなにか伝えておくべきである、という責任は、村上のような著名人に限らず、誰にでもある責任だと思います。ただ、村上が著名人であることは、今回の件では、次の2点においては意味を持つと思います。第一に、著名人だからエルサレム賞を受賞した、ということ。第二に、著名人であるから、財力および知名度その他の力を持っていることから、その人にできることの範囲も多少広めに推定した、ということ。ただし、要請そのものは、村上が著名人であるかどうかに関係なく、常に発せられているものです。

 次に、「こちらの要求に応じてくれて」。村上が自律的に判断した結果ああしたのか、こちらの要求があったがゆえにああしたのか、そんなこと誰にもわからないはずです。ゆえに、「こちらの要求に応じてくれて」とは思っていません。ただし、その要求の存在に言及してくれたことはよいことだと思いますし、そもそも、耳に入ったこと自体を嬉しく思います。

 三つめ。「「日本人が」いいこと いった」。ここに込められた意味によりますね。元々、僕が(他の小説家では思いつかないでしょうが)村上春樹に要求したいと考えたのは、彼が日本語圏の作家だからです。私たちは、村上春樹母国語で呼びかけることができます。もし、日本語が話せるならば村上に日本語で呼びかけたいと考える可能的な誰かの声にこたえたい、ということです。少なくとも、民族主義的な同朋意識とは無縁のものです。メディアでは、民族主義的な同朋意識からの「いいこといった」が、あちこちで語られている状況があることは知っていますが、それは僕のせいではないし、僕が批判しないわけでもありません。

 四つ目。「えらい」。村上春樹がえらいかえらくないかはどうでもいいです。むしろ、村上春樹が「えらくない」と言っている人が、「えらい」「えらくない」にえらくこだわっているように見えますが。僕は最初から、「小さいものは小さいままに」評価しよう、と言っています。


 以上、お答えした上で、お二人には、次の質問をします。お二人は、イスラエルの生粋のシオニストを、語りかけるべき相手であると認識していますか?ということです。仮に、認識していないのであれば、シオニストに対して語りかけること抜きに、どんなパレスチナの未来を描きうると思っているのですか?ということです。


 解決を構想する責任は、シオニストも含めたすべての人間にあります。被抑圧者ならびに被抑圧者への支援者にのみあるわけではありません。それは当たり前のことです。ただし、私たちは解決についての明確な構想を必要としています。だから、解決したいという意思によって、それを構想する責任は一方的に引き受けられます。まず、あなた方にはそのつもりがあるのか、問うています。

 誤解のないように言うならば、感情の問題として、そんなこととても考えられない、ということはいくらでもあります。直接の被抑圧者が、シオニストを許せるか、許せない、ということはいくらでもあるでしょう。だから、許せないことを非難しようとは思いません。僕とて、僕自身が直接に抑圧されるような状況では、感情の問題として、解決云々関係なく払いのける、そういう気分はいくらでもあります。だから、次のように述べるでしょう。被抑圧者にだけは、その責任はない。……しかし、被抑圧者においてさえ、解決したいという意思において、しばしばその責任は引き受けられます。

 被抑圧者の支援者においても、同じような感情が芽生えることはあるでしょう。そのことを責めようとは思いません。それは被害者への自己同一化に他なりませんが、そのように自己同一化して考えることは、むしろ必要な前提でもあるからです。感情を抑圧することはありません。しかし、感情を抑圧しないということは、理性を抑圧する、ということではありません。どうしたって解決の具体的構想は必要なのです。だから、感情的にどうであれ、解決したいという意思において、しばしばその責任は引き受けられます。……引き受けなくても、引き受けられなくても構いません。しかし、少なくとも、解決したいという意思における思考を、少なくとも攻撃しないことくらいはお願いしたいと思います。

 それも無理だ、抑えられない、ということもあるでしょう。まあ、そういうことはあります。そうであるならば、お好きなようにどうぞ。僕の方で聞き流すことにします。ただし、「お二人は、イスラエルの生粋のシオニストを、語りかけるべき相手であると認識していますか?仮に、認識していないのであれば、シオニストに対して語りかけること抜きに、どんなパレスチナの未来を描きうると思っているのですか?」、この質問に真正面から答えられた上での批判については、聞き流すつもりはありません。それを考えたいからこそ、こういう疑問を投げかけているのですから。

追記 2009/03/02

 http://d.hatena.ne.jp/lmnopqrstu/20090301/1235919759
 まず、論点1。

シオニストを含む)イスラエル人との平和共存をのぞむなら、シオニストを説得せねばならないという判断は、シオニストを説得すれば、(シオニストを含む)イスラエル人との平和共存に至るという判断と等しくない。要するにPならばQは、QならばPと等しくない。

 僕は、シオニストを説得することが、パレスチナ問題解決の「必要条件だ」と述べているのですから、あなたの理解で合っていますよ。つまり、それ、僕への批判になっていません。


 次、論点2。
 「ある場合には単純」、だから、ガザ攻撃は非難されている。多義性とは、多様な解釈の一つとして「ガザ攻撃への非難」を含むような、多様な解釈です。ここでは先と逆の勘違いですね。多義的であるとは、「ガザ攻撃への非難」以上のことを意味する、ということです。つまり、村上の書いたことは、ガザ攻撃を非難するための十分条件になっています。なんで、それが問題だと思うのか、さっぱりわかりません。


 論点3。……続けようかと思ったけど、正直、根負け。一応、lmnopqrstu氏の批判は読みました、ということだけ、ここに述べておきます。これ以上については、他のことを優先させることにします。

*1:実のところ、数百万のユダヤイスラエル人が存在していることを、既に受け入れているパレスチナ人は結構いるように思います。映画などでは、「彼らを全部追い出すことなんて無理だ」といった発言を聞くことは、稀ではありません。倫理的な不可能性ということ以上に、現実的な推量という面もあるでしょうが。いずれにせよ、パレスチナ人が時折見せるイスラエル人に対する寛容さ、イスラエルのプロパガンダによる「寛容さ」とは違う、真の寛容さには、しばしば驚かされます。