モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

「常に卵の側に」を読む

 村上春樹エルサレム賞受賞スピーチ全文が出て、その全訳があちこちで出ている。ホントにすごい。まずは、翻訳職人の皆様に、御礼と感謝を申し上げます。いくつもあるバージョンの中から、とりあえず、次の二つ。

 以下、読んでみての感想など。あまり芸がないので、冒頭から気になるところを引用しながら、簡単なコメントを付していきたいと思います。引用は、基本的に増田訳。(増田訳のタイトルは「側に」になってますが、なんとなく、「傍に」の方がよいような気がするので、本記事のタイトルではそう表記しておきます。)(元に戻した)

ジャブ

 冒頭、「政治家も嘘をつきます」とわざわざペレスの目の前で明言したことには、ちょっとした余談以上の意味を感じます。些細なようで、些細ではない、大事な言及だと思います。ジャブだけど、決して軽くはない、ジャブ。

フィクションと「ほんとうの事」

創作によって為される上手な嘘は、ほんとうのように見えます。小説家はほんとうの事に新しい地位を与え、新たな光をあてるのです。ほんとうの事はその元の状態のままで把握するのは殆ど不可能ですし、正確に描写する事も困難です。ですので、私たち小説家はほんとうの事を隠れ家からおびき出して尻尾をとらえようとするのです。ほんとうの事を創作の場所まで運び、創作のかたちへと置き換えるのです。で、とりかかるためにまずは、私たちの中にあるほんとうの事がどこにあるのか明らかにする必要があります。これが上手に嘘をつくための重要な条件です。

 フィクションであっても、それが現実の中に根を持っていることを示唆していると僕は読みます。だから、フィクションとは、具体的現実と切り離されたフィクションではありえません。あれともこれともそれともどれとも、あらゆる具体的現実をつなげることの可能なフィクションであり、現実を把握するためのモデルとして使用されるものなのです。

 重要なことは、モデルの正しい使用法を特権的に主張できる人などどこにもいない、ということです。たとえば、村上の示したモデルを、パレスチナ問題にのみ適用するなら、それはおかしな話でしょう。あるいは、パレスチナ問題における、パレスチナ側の犠牲にのみ適用することも、おかしな話でしょう。それはあらゆる具体的な問題に対して、また、あらゆる具体的な問題において存在する重層的な問題の一つ一つに対して。たとえば、イスラエルの軍事攻撃と、ハマスのロケット攻撃の両方に対して、適用されるのです。……こう示唆した上で、誤解のないように慌てて補足しましょう。イスラエルの軍事攻撃の被害者とハマスのロケット攻撃の被害者は、同様に問題とされるべきです。ただし、イスラエルの軍事攻撃とハマスのロケット攻撃を、同様に問題とすることはできません。この違い、もちろん、わかりますよね?

不買運動

そういうわけで、ほんとうの事を話していいでしょう。結構な数の人々がエルサレム賞受賞のためにここに来るのを止めるようアドバイスをくれました。もし行くなら、著作の不買運動を起こすと警告する人までいました。

 不買運動(ボイコット)についてまで言及してくれているとは。僕の知る範囲では、ボイコット対象にする可能性に直接言及したのは僕以外にいないので、もしかすると、本当にここを読んだのかもしれないな、と思いました。申し訳ないやら恥ずかしいやら嬉しいやら楽しいやら照れくさいやら恐縮するやら。ちょっと簡単には説明できない気持ちです。いや、やっぱりちょっと嬉しいかもしれません。

 でも、読んで不快に思ったとしたならば、その点はスイマセンでした。資本主義的に脅迫したのですから、資本主義的な落とし前として、とりあえず『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を買いました。新品で。

 それはともかく、日本をはじめとして、いろんなところで強い関心がもたれているということを、イスラエルの人々に伝えてくれたことに感謝したいです。

イスラエル批判

受賞の報せから何回自問した事でしょうか。こんな時にイスラエルを訪問し、文学賞を受け取る事が適切なのかと、紛争当事者の一方につく印象を与えるのではないかと、圧倒的な軍事力を解き放つ事を選んだ国の政策を是認する事になるのではと。もちろんそんな印象は与えたくありません。私はどんな戦争にも賛成しませんし、どんな国も支援しません。もちろん自分の本がボイコットされるのも見たくはないですが。

 村上氏は、「紛争当事者の一方につく印象を与えるのではないかと、圧倒的な軍事力を解き放つ事を選んだ国の政策を是認する事になるのではと。もちろんそんな印象は与えたくありません」、そう明確に述べています。ここにイスラエル政府への批判を読み取れない人は、頭を豆腐の角にぶつけて考えなおすのがよいと思います。

 次のような意見を目にしました。「これを読んで、単にイスラエル批判という一重の意味しか捉えられない奴は鼻から前頭葉掻き出したほうがいい、必要ないだろうから」*1。なにを心配しているのだろう、と思いました。村上のスピーチから、イスラエル政府への批判「だけ」を引き出すならば、バカバカしい話でしょう。そうではなく、ここからは、たくさんのものを引き出すことができますが、その一つとしてイスラエル政府への批判を引き出すことができます。単純な話です。他にも三つも四つも五つも引き出すことができるでしょう。「一重の意味しか捉えられない」奴は、そのとおり、どうかしてると思いますが、イスラエル批判を引き出すことができない人も同じくらいどうかしていると思います(もちろん、イスラエル批判を引き出すことを、なにやら咎めだてするようなことを言う、すべての人もどうかしています)。

 ところで、イスラエル批判というと、パレスチナの側からイスラエルを断罪するような態度しか想像できない人が(相変わらず)いらっしゃるので、再度強調しておきます。「本気でイスラエルがかわいそうだと思うなら」イスラエルの政策を批判するべきなのです。ついでですので、ここで改めて問うておきたいと思います。このスピーチからイスラエル批判を引き出すべきでないと考える人たちは、一体、イスラエル政府の政策を批判することなしに、どんな未来を描きうると考えうるのか。パレスチナ人にとってだけでなく、他ならぬ、イスラエルの人々にとって。実際にイスラエルを追い詰めているのは、あなた方のような人たちなのだと、述べておきたいと思います。

正しさ、政治、コミットメント

でも慎重に考えて、とうとう来る事にしました。あまりにも多くの人々から行かないようアドバイスされたのが理由のひとつです。たぶん他の小説家多数と同じように、私は言われたのときっちり反対の事をやる癖があります。「そこに行くな」「それをするな」などと誰かに言われたら、ましてや警告されたなら、「そこに行って」「それをする」のが私の癖です。そういうのが小説家としての根っこにあるのかもしれません。小説家は特殊な種族です。その目で見てない物、その手で触れていない物を純粋に信じる事ができないのです。

 僕はここで、エルサレムに来ることを正当化していない、ということに注目したいと思います。ちょっとジョークっぽいニュアンスがありますが、「エルサレムに来ることが正しいと思ったから来た」という形にはなっていないのです。

 既にあちこちで指摘されていますが*2、村上氏がどのようにふるまったとしても、たとえばイスラエル社会の寛容さや自由さの証拠として利用されるというような、なんらかの荷担に終わってしまう構造の中にありました。その意味で、来ることにも来ないことにも、朗らかに肯定できる正しさというものを考えることができない。それは正しさへの賭けではありえますが、正しさとして位置づけることができない。そんな風に読みました。

 と同時に、相対主義的な立場に陥ることもないのです。続いて、次のように述べられてもいます。

政治的メッセージを届けるためにここにいるわけではありません。正しい事、誤っている事の判断はもちろん、小説家の一番大切な任務のひとつです。

しかしながら、こうした判断をどのように他の人に届けるかを決めるのはそれぞれの書き手にまかされています。私自身は、超現実的なものになりがちですが、物語の形に移し替えるのを好みます。今日みなさんに直接的な政治メッセージをお届けするつもりがないのはこうした事情があるからです。

 「正しい事、誤っている事の判断はもちろん、小説家の一番大切な任務のひとつです」、こう述べています。つまり、ある具体的な内容に対して正しさを主張することを避けていますが、正しさ、という概念に対しては、ちゃんとコミットしているのです。

 さて、ここで「直接的な政治メッセージをお届けするつもりがない」とはどういう意味でしょうか?「卵と壁」の比喩は政治的なメッセージではない、という意味でしょうか?そんなわけはありません。あれはどう読んでも政治的なものです。僕の解釈はこうです。「直接的な政治メッセージ」とは、たとえば「ガザの封鎖を解け」とか、そういう類の、具体的な政策を提案するつもりがない、ということでしょう。

 その上で、「卵と壁」の比喩は、明白に政治的な何かを明らかにしようとするものです。これを前提にすれば、後は、考えたらわかることのはずです。それは政治の仕事です。それを、村上春樹は引き受けなかった。ただ、その前提だけを明らかにして、あとは、イスラエルの人々に投げ返した。その意味で直接の政治メッセージではない。そういうことだと思います。

卵と壁

ええ、どんなに壁が正しくてどんなに卵がまちがっていても、私は卵の側に立ちます。何が正しく、何がまちがっているのかを決める必要がある人もいるのでしょうが、決めるのは時間か歴史ではないでしょうか。いかなる理由にせよ、壁の側に立って作品を書く小説家がいたとしたら、そんな仕事に何の価値があるのでしょう?

 システムが定義する「正しさ」ではなく、「人間の都合」にコミットする、ということでしょうか。「正しさ」をどう定義するか、という問題と考えてもいいと思いますが、そこは些細な話。

この暗喩の意味とは?ある場合には、まったく単純で明快すぎます。爆撃機(bomber)と戦車とロケット弾と白リン弾は高い壁です。卵とは、押しつぶされ焼かれ撃たれる非武装の市民です。これが暗喩の意味するところのひとつです。

 これはなんとも興味深い一節です。暗喩なのに、その意味は「ある場合には、まったく単純で明快すぎ」るのです。この部分について、曖昧さを残すつもりがない、という意思表示にも見えます。明快に書いているのに暗喩だと言い張る、なんともパラドキシカルな感じがします。ここからイスラエル批判を読み取れないという人は(以下自粛)。

しかしながら、常にそうではありません。より深い意味をもたらします。こう考えて下さい。私たちはそれぞれ、多かれ少なかれ、卵です。私たちそれぞれが壊れやすい殻に包まれた唯一無二のかけがえのない存在(soul)です。私にとってほんとうの事であり、あなたにとってもほんとうの事です。そして私たちそれぞれが、多少の違いはあれど、高く固い壁に直面しています。壁には名前があります。それはシステム(The System)です。システムはもともと、私たちを護るべきものですが、ときにはそれ自身がいのちを帯びて、私たちを殺したり殺し合うようしむけます。冷たく、効率的に、システマティックに。

 「壁」は、「システム」の隠喩である。そう述べているのでしょうか?どうもそれだけではないように思います。むしろ、「システム」は、「壁」の隠喩でもあるのです。というのも、ちょうど「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」が届いて少し読んだのですが、『「長い廊下」の隠喩として「マルセル・プルースト」が出てくる、なんかヘンだ、「プルースト」の隠喩として「長い廊下」が出るのが普通だろ』、みたいなシーンが出てきます。どうも、それが重なってしまいます。

 「壁」は、イスラエルにおいて、単なるイメージではありません。分離壁という本物の「壁」があります。その壁を見るとき、私たちは、この壁が人と人を分断するシステムとして働いていることを明瞭に理解しなければなりません。だから、ここは具体的な問題を抽象化してぼかしたのではなく、むしろ、具体物として見るだけではぼやけている問題を明瞭にしたのではないか、と思います。

小説家の使命

私が小説を書く理由はひとつだけです。個人的存在の尊厳をおもてに引き上げ、光をあてる事です。物語の目的とは、私たちの存在がシステムの網に絡みとられ貶められるのを防ぐために、警報を鳴らしながらシステムに向けられた光を保ち続ける事です。私は完全に信じています。つまり個人それぞれの存在である唯一無二なるものを明らかにし続ける事が小説家の仕事だとかたく信じています。それは物語を書く事、生と死の物語であったり愛の物語であったり悲しみや恐怖や大笑いをもたらす物語を書く事によってなされます。生と死の物語や愛の物語、人々が声を上げて泣き、恐怖に身震いし、体全体で笑うような物語を書く事によってなされます。だから日々私たち小説家は、徹頭徹尾真剣に、創作をでっちあげ続けるのです。

 ここを読む限り、村上春樹という作家は、少しも曖昧ではない。壁=システムに抗して「個人それぞれの存在である唯一無二なるものを明らかにし続ける事」、それが小説家の使命だと述べています。手放しで賞賛したいと思います。

敵と味方をわけない

昨年私の父は90才でなくなりました。彼は元教師でたまにお坊さんとして働いていました。彼は大学院にいた時、徴兵され中国に送られました。戦後生まれの子供として、父が朝食前に長く深い祈りを仏壇の前で捧げていたのを目にしましたものです。ある時、私がどうしてお祈りをするのかたずねたところ戦争で死んだ人々のために祈っていると答えてくれました。

味方と敵、両方の死んだ人たちすべてに祈りを捧げていると父はいいました。仏壇の前で正座する彼の背中をながめると、父にまとわりつく死の影が感じられるような気がしました。

 ここはやはり、「味方と敵、両方の死んだ人たちすべてに」というところでしょうか。これは「どっちもどっち」ではなく、当然の前提です。繰り返しになりますが、ここでも書いておきたいと思います。……イスラエルの軍事攻撃の被害者とハマスのロケット攻撃の被害者は、同様に問題とされるべきです。ただし、イスラエルの軍事攻撃とハマスのロケット攻撃を、同様に問題とすることはできません。この違い、もちろん、わかりますよね?

抵抗の可能性

今日みなさんにお知らせしたかった事はただひとつだけです。私たちは誰もが人間であり、国籍・人種・宗教を超えた個人です。私たちはシステムと呼ばれる堅固な壁の前にいる壊れやすい卵です。どうみても勝算はなさそうです。壁は高く、強く、あまりにも冷たい。もし勝ち目があるのなら、自分自身と他者の生が唯一無二であり、かけがえのないものであることを信じ、存在をつなぎ合わせる事によって得られた暖かみによってもたらされなければなりません。

ちょっと考えてみて下さい。私たちはそれぞれ、実体ある生きる存在です。システムにはそんなものはありません。システムが私たちを食い物にするのを許してはいけません。システムがひとり歩きするのを許してはいけません。システムが私たちを作ったのではないです。私たちがシステムを作ったのです。

 「もし勝ち目があるのなら、自分自身と他者の生が唯一無二であり、かけがえのないものであることを信じ、存在をつなぎ合わせる事によって得られた暖かみによってもたらされなければなりません」。信じるのは誰か。私たちです。実際につなぎ合わせるのは誰か。もちろん、私たちです。ここで述べられている「暖かみ」を実際に作る仕事は、私たち全員の仕事でしょう。「システムが私たちを作ったのではないです。私たちがシステムを作ったのです」。だから、それはきっと可能なはずです。

最後に

 以上、徹頭徹尾、真剣に、自分に都合よく解釈してきました。文句がある人はいくらでもどうぞ。

 最後に付け加えておくと、わざわざエルサレムまで行って語ってきた意味は、やはり小さくないと思います。P-navi infoさんでも書かれていますが、「この言葉はとくに自国の政策に反対しているイスラエル人には、大きな励ましとなっただろう。それがしたくて、彼は行くことを選んだのではないかとさえ思った」という意見に、僕も同意します。


世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド〈上〉 (新潮文庫)

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド〈上〉 (新潮文庫)

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド〈下〉 (新潮文庫)

世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド〈下〉 (新潮文庫)