モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

「村上春樹」を巡る政治

 まだ、講演全文は入手していないけれど。


私たちが得たもの

 村上の発言は、少なくとも想像されていたよりはずっと踏み込んだものであったし、具体的でもあったのではないでしょうか。イスラエル側の被害者のイメージを切り捨てなかったのは、(そこに誤解の余地が残ってしまうにしても)むしろ大事なことだと思います。先の記事へのコメントにも書きましたが、ハマスのロケット砲が問題ではないわけではないですから。正しくは、問題にすべきだが、問題にするための前提を欠いている、という状況なわけであり、少なくとも村上は、そのことを否定することは言っていません。

 村上発言に対するイスラエルにおける受容については、いくつかのパターンがあると思います。「もう村上なんて読まない」と怒る人。「村上は、村上の信念を述べた。私は私の信念に従う」と満面の笑みでリベラルさを演出する人。忘れたフリ、見なかったことにする人。「村上の突きつけた問題は重い」といいながら、結局やることはやっちゃう人。少なくとも短期的には、99.9%、イスラエルの政策は変わりません。硬化する可能性さえあるでしょう。*1

 日本についても同様です。村上を賞賛してる人さえ、99.9%、3日たったら過去の話にしてしまうでしょう*2。実際、ブクマや記事を通じて、そのような切断操作にいそしんでいる人がチラホラ見受けられます。

 問題はどこにあるのか。結局のところ、「自分も関与すること」について、徹底的に否認する態度、広範に広がるこの態度にこそあります。当たり前のことですが、村上氏の講演は、それを変えることはできないでしょう。村上氏の非政治的態度に託して自身の非政治的態度を正当化してきた人は、今度は、村上氏の政治的態度を賞賛したり、あれは政治的態度とは違うと批評してみたり、村上氏と距離を置いてみたり、その中で反省や再評価も絡めつつ、「自分が関与することの否定」と「村上の講演」の両方と矛盾しない新たな均衡点を探すことでしょう。

 その意味で、村上春樹の講演で、ちっとも変わったところはありません。私たちが獲得したのは、実際の変化ではありません。講演が人を変えることはありません。自分自身について、自分自身が変えること以外にはありえないのです。私たちが獲得したのは、それでも変わらない人々における自己欺瞞の形態の暴露です*3。無論、それは別段、目新しいものではありません。しかし、その姿をハッキリと捉えることには、大事な意味があります。自己欺瞞は、姿を隠すことによって力を得るものなのですから。*4

詰んでいる/詰んでいない

 今回の受賞講演がイスラエルで容認されたことによって、むしろ、イスラエルのリベラルさを印象づけてしまった、という意見があります。もっともなことではありますが、この語り方は、いくらか問題があるように思います。正確には次のようになります。「イスラエルがリベラルである」という表象を欲している人たちがいるのです。そして、そのような表象を欲している人たちが、村上春樹の講演をそのように読むのです。

 村上の講演をそのように読み、エルサレムの授賞式会場での万来の拍手をそのように読み、そして一安心するのは、村上の責任でもなければ、そう印象付けようとしたシオニストの責任でさえありません。そのように騙され続けている当の本人こそが、そのように騙されたいと願っているわけです。一番重要なポイントはそこにあります。

 hokusyuさんは、次のように述べています。>「「制度」の中の倫理」

「ただし、この村上氏の講演は、結局は予定調和の枠を出ませんでした。「約700人の聴衆が大きな拍手を送った」というのがそれを証明しています。スーザン・ソンタグと同じく、村上春樹の講演も結局はイスラエルの「寛容さ」をアピールする以上の衝撃を与えませんでした。

 もちろん、そのとおりです。しかし、この予定調和を通じて、予定調和の相手方、すなわち、「騙されたがっている人たち」が姿を現すことになりました。姿が見えるということ、これがまさに重要なことであり、ゆえに、エルサレム賞についての本番はこれからなのです。過去の物語とされていくプロセスを批判することです。それはヒドイ話ですが、村上のスピーチがヒドイものであったならば、「過去の物語とされていくプロセス」自体が存在せず、私たちは敵の姿を捉えることにさえ、より一層の苦労を強いられたことでしょう。

はっきり言えば村上春樹は最初から詰んでいたということです。そして、ぼくたちも最初から詰んでいるのです。わたしたちがつくりだしたはずの「制度」に、わたしたちは束縛されているのです。この詰んでいる状態から「実践」は始められなければいけないのです。その意味では、村上春樹の今回のスピーチは非常に示唆的なものであったといえるのではないでしょうか。

 これも、もちろん、その通りです。そして、「詰んでいる」という事実を、彼はちゃんと示した。彼に示したつもりがあったかどうかは関係ありません。とにかく、示した。しかし、「詰んでいる」のに、何がしかはできてしまうこともまた示したのです。その意味で、いつでも「詰んでいない」。これはどういうことでしょうか。

 正確に言うならば、次のようになります。切断処理して無関心の中に逃げ込む人たちがそのままであることを前提にする限り、私たちは何をやるとしても詰んでいます。しかし、「詰んでいる状況」そのものに対する戦いは詰んでおらず、それはつまり、無関心の中に逃げ込む人たちを直接に問題にすることは可能である、ということです。そして、この意味において、人間は詰むことができないのです。なぜなら、人間は呼びかけに応える/応えないを選ぶ自由の刑に処せられていると同時に、呼びかけを聞かないでいる自由はないから。

責任とリスク

 村上氏のスピーチは、複数の解釈を許すものです。最悪のシオニストの意向に添う解釈さえ、やってやれないことはないでしょう。その曖昧さを批判する気分はわからないではありません。もっと解釈の余地の少ない、明確なことを言ってくれれば、もっと嬉しかったでしょう。ただし、相手のホームグラウンドで、相手を真っ向から批判することさえ、通常の人間には困難なことです。あの場所は、自由な言論の場ではなく、政治の現場なのです*5村上春樹という人は記号ではなく、生身の一人の人間なのです。場合によっては、命の危険をも考えなければなりません。

 僕は最初から、「なんの批判もしないのはありえない」と述べてきましたが、それがどういう質の批判であるのかについては、あまり頓着していません。発言にはリスクが伴うし、どのようなリスクに直面するかは第三者には正確に把握できないし、それらのリスクをどう評価するかはそれこそ本人にしかできないからです*6。もちろん、煮え切らない批判であれば、それはそれとして批判したでしょう。ソンタグについても批判したように。しかし、それをソンタグの責として語ることは、局外者の倫理にもとると僕は考えます。問題にするべきは、実際の発話者に対して作用している有形無形の圧力であり、それを生み出している構造です。

 人間は誰にでも、最小限の抵抗はできると思います*7。しかし、hokusyuさんが言うように、私たちは最初から詰んでいます。だから、抵抗には常に、(構造からの)報復がつきまといます。ゆえに、最小限以上の抵抗を要求することに対しては、どれほど慎重であっても慎重すぎることはありません。報復のリスクを他人が勝手に見積もることでしかないのですから。


 僕は、今回の件について、少なくとも批判の意思表示をすること、それを最小限と考えていました。その見積もりが妥当であったかはわかりませんが、勝手に見積もり、妥当であると考えました。しかし、そこで生じるリスクと引き合わないと村上氏が考えるのであれば、彼は受賞を辞退することもできたわけです。しかし、その見積もりは間違っているかもしれません*8。ただし、その報復として僕が考えていたのは、「村上春樹の小説は買わないし、エルサレム賞に対する村上春樹のふるまいを周囲に語り続ける」というものでした。これは報復と呼ぶのさえ恥ずかしくなるような程度のものです。だから、村上氏が本当に身の危険を感じたならば、僕のような立場の者の要請は蹴ることは十分可能でした*9。見積もりは間違っているかもしれないから、そのための報復は考えうる最小限のものにしました。まぁ、それ以上の報復というのは、僕自身にとっても面倒くさいことであるので、そもそもやる気もないとも言えますが。

 いずれにせよ、村上氏は、エルサレムに行き、あのような講演を行うことを選びました。そこには一定の曖昧さがあります。しかし、彼はハッキリとイスラエルを批判しました。あとは(村上春樹氏も含む)すべての人の問題です。複数の解釈が可能であるということは、それらの解釈からある解釈を選ぶことは、その人本人の責任だ、ということです。私たちはそれを具体的に問題にするべきだし、そうすればよいのです。少なくとも言えることは、村上氏のスピーチがヒドイものであったならば、その人自身の解釈を示す必要さえなく、ゆえに、そうした自己欺瞞はぬくぬくと隠れ続けることができたでしょう、ということです。


 id:tari-Gさんは、村上春樹のスピーチでは手ぬるい、と批判している。上記hokusyuさんの記事につけられたブクマコメント。

全ての国家・法制度が暴力装置であるのは自明中の自明。なにを今更/元々この話は拒否の一択しかなく、行くなら壇上で賞状を破り捨てるぐらいしか選択肢はない。それを村上もこのエントリもまぁうだうだと。
http://b.hatena.ne.jp/tari-G/20090217#bookmark-12156039

 賞状破り捨てたら、かっこよかっただろうね。それがベストかどうかはわからないけれど、少なくとも、より明確にはなったでしょう。やるな、とは言わない。しかし、やらなかったことを批判するつもりは、とりあえず今のところ、僕にはない。僕は、運動をしないことは批判するけれども、やる場合に、その巧拙を批判することには最大限慎重でありたいと思っている。それは、社会への抵抗は、システムからの報復を必然的に引き起こすから。もちろん、それを言い訳に「何もしない」のは最低だと思っている。しかし、「やる」ならば、その巧拙を問う前に、「なにもやらない人々」を問うべき。ハマスのロケット砲より先に、イスラエルの占領をこそ問題にしなければ筋が通らない、というのと同じ理屈で。

船からは飛び降りない

 次の記事にも言及しておきたい。> 洋上のスピーチタイム

 先に、末尾に引用されているid:toled氏の記事について。基本線は理解できるし、僕も基本的には同じことを言っている。ただし、得たものを、殊更に大変なものを得たかのように喧伝するのはよくないけれども、逆に、その意味をきちんと評価することなく「すっぱり忘れ」るのもバカバカしい。どれほど小さくても、その小ささのままに、きちんと評価すればいい。運動を「続ける」とは、そういうことだと思う。

 あと、Romanceさんの本記事について。

陸に戻ろうと、乗員たちに呼びかける人がいる、そうだそうだと拍手が巻き起こる。しかし船から飛び降りて一人泳いで陸を目指すこともできるはずではないか?

 そうです。ガザで活動している外国人もたくさんいますね。ただし、陸が気になるすべての人が全部飛び降りていってしまうことを望んでいるのですよ、船上パーティの人たちは。だから、二言目にはガザに行けと、全財産差し出せと、人生投げ打ってやれと、掛け金を吊り上げます。*10

 船を飛び降りる人がいなければ、今、この瞬間を生き延びられない人はいるのですから、飛び降りることを否定することはできません。というより、船を飛び降り、既に陸にあって活躍している人を、どれほど賞賛してもしすぎることはないでしょう。

 しかし、陸を陸だけで救うことはできないということは、あらゆる現場の人たちが口にしていることです。船を陸に接岸しなければならない。僕は船を降りない落とし前として、船を陸に向かわせることを執拗に主張します。おかげで、船の上での生活は、口を開いた回数に比例して居心地が悪くなりますが、それは仕方ないでしょう。陸まで泳いでいくよりはよほど快適だと考えれば、なんてことはありません。

 ぬるいと言う人は言わせておけばいいと思っています。ただ、確信をもっていいますが、この程度のぬるいことを一定数以上の人がちゃんとやれば(だいたい半分?)、問題は解決可能です。ついでに言えば、ぬるい、と発話してしまう人は、そう発話することによって、何事かを明らかにしてしまうものですから、それもまた望むところです。

 最後に、先の記事の結論を、もう一度繰り返しておきます。

……ただし、問題解決とは、問題が解決されることであり、誰かが解決されるべき問題に言及することではない。そして、それは村上氏の仕事ではないし、運動家の仕事でもないし、僕の仕事でもない。それらすべての人々を含む、「みんなの」仕事だ。つまり、目標はまだ先にあり、その仕事に対する責任は、すべての人にある。シンプルな話だ。

 村上氏のスピーチを、なにかの終りとして、なにかの区切りとして位置づける態度は、それ自体が欺瞞である。私たちはそれを強く警戒しなければならない。村上氏のスピーチは、自分自身にとっての、新たなはじまりでなければならない。村上氏のスピーチを評価するとは、そういうことだと思う。……

追記

 誤解されないように、次のように述べておいた方がいいだろうか。──僕は、現時点において村上春樹を批判すべきではない、と述べているのではありません。(1)本記事のような理由から、僕自身はしません。それは村上春樹の直面するリスクを、僕個人は大きなものと見積もっているからです。より小さく見積もる人は、「もっと踏み込めたはずだ」という批判をするかもしれません。それについては、より小さく見積もり根拠を知りたいと思いますが、一つのありうる態度ではあるでしょう。(2)村上氏を批判する際には、常に、同時に、その背後にいる「自分の問題として引受けない人たち」を批判するべきだ、ということです。僕自身は、「村上氏よりも」そちらを批判することに主眼を置いています。いずれにせよ、絶対に不問にしてはならないのは、村上春樹よりも、「観客席」にいるつもりの人たちのはずです。

*1:それでも、こういうことを言っておくのが大事だと思うのは、次のようなこともあるから。種をまくことは大事。ただし、長期的なことは、長期的なことでしかなく、短期的な実りのなさの言い訳になるわけではありませんが。> http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20070825/p1

*2:追記。これはさすがに、村上の読者を見くびりすぎかもしれない。あちこち見て回ったけれど、ホントにいろんな人がいる。けど、引用してる人もいるし、修辞的な戒めとして、そのままに。

*3:もちろん、変わる人も、少数ながらいるでしょう。歓迎します。

*4:次の記事を参照。> http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20061127/p1

*5:てゆーか、政治的な諸力の作用しない「自由な言論の場」なんて、この世に存在しませんよね。

*6:ここでのリスクに、僕は序列をつけています。もっとも重大なものは、生存に関わるリスクです。次に、標準的な生活に関わるリスクです。作家としての名誉や社会的地位や交友関係についてのリスクは、より下位に来るものと考えます。

*7:すべての人間について、可能な最小限の抵抗の形式が存在する、と言えばいいでしょうか。

*8:ちなみに、この見積もりの妥当性を問う批判は、知る限り、一件もありませんでした。村上春樹の負うリスクを考えていないoそもそも口出しすべきでない、という批判ならありましたけど。

*9:村上氏が、たとえば命の危険を感じてやむを得ずシオニスト礼賛スピーチをするならば、それを批判するでしょうが、仕方のないこととも思います。また、批判するときには、村上春樹本人以上に、村上春樹にそのようなスピーチをさせてしまう構造を問題にしたでしょう。そのくらいのことは考えます。……といったようなことは、今回は杞憂に終わりました。

*10:もちろん、僕も船上パーティの参加者ですけれども。