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モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

僕はパレスチナに用がある。他にどんな理由がいるんだ?

 二言目には「村上春樹を読んだこともないくせに」とか抜かすアホどもへ。


 そりゃ、エルサレム賞を受賞しようと、拒否しようと、受賞するとしてどんなスピーチをしようと、村上春樹の自由に決まっている。その自由を侵害しようとした人なんて、見渡す限り、一人もいない。自由を侵害するとは、たとえば村上の家族を害するぞと脅迫して、受賞をボイコットせよと言うような、そういうことを言うのだ。村上春樹に受賞を思いとどまるよう述べている人は、あるいは、受賞するとしてイスラエルをハッキリと批判するよう求めている人は、村上の自由を前提にして、述べている。

 どれほどたくさんの人が、受賞を思いとどまるように述べたとしても、受賞スピーチでイスラエルを批判するように求めたとしても、あるいは、そんな声に頓着する必要はないと言ったとしても、村上春樹は、自分のふるまいを、自分で決める。それは前提だ。当たり前のことだ。


 ただし。そこにかつて住んでいて、追われて、今はいない人たちがいる。今、そこに住み、イスラエル社会の苛烈な差別と抑圧の中で暮らしている人たちがいる。エルサレムだけではない。まったく同じようにして追放され、差別され、抑圧されている人たちが、パレスチナ中にいる。エルサレムにゆかりあるそれらの人々は、彼らにとって特別なその土地の名を冠した文学賞が東洋の小説家に授与されることを、どんな気持ちで見守るのか。考えてみればいい。考えないですまされようはずもない。

 イスラエルの文学者たちには、自分たちがすばらしいと考える文学者に栄誉を贈る自由があるだろう。贈られる者は、それを受け取る自由もあるだろう。ただし、それらの自由は、その土地にゆかりのあるたくさんの人々の自由の剥奪の上にある。それが事実である。村上春樹の自由と自律を擁護する人々に聞きたいが、あなた方が擁護する自由と自律は、そこを追われた人々の、そこで押さえつけられる人々の、当たり前の日常を暮らす自由を、踏みつけにしなければ実現できないものなのか。そうでしかありえないのならば、そんな文学など、いらない。


 僕は、村上春樹の本など一冊も、一文字も、読んだことがない。エルサレム賞などという文学賞の存在は、つい先日初めて知った。それでなにか問題でも?僕は本来、村上春樹にも文学にも用はないけれど、パレスチナには用がある。パレスチナに友人と呼べるような友人はいないが、そこに友人がいて胸を痛めている友人ならいる。「あってはならないこと」のいくつかが起こっていなければ、もっと違う形で暮らしていたであろう、とある少女のことを、ほんの少しだけ、知っている。その土地からやってきた人の、1時間ばかりの泣きたくなるような話を聞いて、握手をしたことがある。それで十分だろう。何の文句がある。

 僕にとって、エルサレム賞とは、エルサレム「賞」である前に、「エルサレム」賞である。僕が関心を寄せるパレスチナの人々にとって特別な、その土地の名を冠した賞を、贈る側と、受け取る側に、用がある。ただ、足元を見ろ、と言っておきたい。ただそれだけのことだ。