モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

労働市場を市場全体の中で考える

 昔、「あしたのジョー」で、鑑別所だったかの中でボクシング大会をやるんだとかなんとかいう話があった。もちろん、体格の大きいのも小さいのもいて、まともにやったら勝負にならない。で、どうしたかというと、ハンディキャップとして、体格の大きいのはデカイグローブをつけさせてパンチ力を落とす、というルールにしたのだった。それで、ジョーが普段は弱っちいキャラに負けたりして、なんて話もあったのだけど、顛末は関係ないので無理に思い出さないことにする。とりあえず、そんな風な話。

部分均衡と一般均衡

 失業の原因は、おおざっぱに言って、労働市場の不完全性にある、とか言われる。経済学的に考えれば、需要と供給を一致させる均衡価格(均衡賃金)というのがちゃんとあるはずで、価格が速やかに調整されるならば、失業=労働供給の余剰は発生しないことになっている。つまり、現実に発生している失業は、なんらかの理由で価格が調整されないことに起因する。たとえば、ここの前半でもそんな話がなされていた。>「経済学S2/失業−−メカニズム解釈を経由して、共生にたどり着く」*1

 そこで、その均衡賃金では安すぎて、とても暮らせない、という可能性はある。その上でどう考えるか。一つは、安すぎて暮らせないなら、最低賃金などの規制をかけて、均衡賃金以上の賃金を維持する、というものだ。その場合、失業は発生する。これは仕方ないことだとするなら、失業者を守ることも含めて考えるしかない。それは一つの考え方だ。ただ、別のことも考えておいていい。そもそも、労働市場を分析するときに、労働市場だけを見るのでは足りない。市場全体の一部として、労働市場を位置づけてみる必要がある。いわゆる「部分均衡」と「一般均衡」の違いだ。

 市場全体は、まず、生産物市場と生産要素市場*2に分けられる。生産要素には、大きく分けると、労働と資本の二つがある。労働はともかく、資本は少々ややこしい。伝統的には企業が所有する生産設備などのことだが、ここでは土地も天然資源も全部ひっくりめて、「労働以外で生産に貢献するものはなんでも」くらいにしておく*3。重要なことは、(単純化した上で、でもいいから)必ず一度、市場全体を残らず視野におさめることだ。

 さて、生産に貢献するすべてのもの*4を、とりあえず労働と資本(=労働以外のすべて)に分ける。当然、労働市場と資本市場がある。それぞれ、労働の需要と供給を一致させるように均衡賃金が決まるし、資本の需要と供給を一致させるように均衡価格が決まる。

 重要なことは、労働市場と資本市場の均衡価格は、それぞれ無関係に別々に決まるものではない、ということだ。仮に、資本市場で需給が一致していて、労働市場では労働が余っているとする。すると、労働市場では賃金が下がり始める。そのことは、すぐさま「資本を割高にする」*5資本を減らし、労働で代替しようとする。すると、今度は資本が余るので、資本市場でも価格が下がり始める。やがて、労働市場と資本市場を同時に均衡させるような二つの均衡価格が同時に決まる。

 また、生産要素市場(つまり、労働市場と資本市場)と生産物市場の間にも相互依存関係がある。仮に、それぞれの個人が支配しうる労働の量については格差が小さく、資本については大きいとする。この場合、労働に対する分け前が減って資本に対する分け前が増えれば、分配の格差も大きくなる。すると、生産物の内容も、平均的な階層向けの財やサービスが減り、高額所得者や低額所得者に特化した財やサービスが増える、といった具合に、その構成を変えることになる。そして、それらすべての市場で同時に需給が均衡するような価格に導かれることになる。

 でも、こんな話をすると、「労働も資本も価格が下がって、どっちも取り分がへっちゃうんだね」とか誤解されるかもしれない。そうじゃないんだ。ここで、生産要素のすべてを労働と労働以外のものすべて、すなわち、労働と資本に分けて考えたことを思い出そう。生産の成果の分け前は、すべて、労働と資本のどちらかに分配される。だから、重要なことは、全体のうち労働に対して分配される割合、全体のうち資本に対して分配される割合、なのだ。つまりは、二つの均衡価格の比こそが重要。価格の絶対的な水準ではなくて価格比が大事、「絶対価格」ではなくて「相対価格」が大事、ということ。

 均衡価格、というと、たとえば「労働市場を均衡させる価格」みたいに思われるかもしれない。もちろん、そういう意味もある。しかし、それは部分市場を念頭に置いた場合の意味だ。一般均衡の枠組みで考えるならば、すべての市場を同時に均衡させる価格(たち)が同時に決まる。一般均衡の枠組みでは、均衡価格ってのは、「ある市場における価格」ではなく、「すべての市場を均衡させているときの諸価格の組み合わせ」のことだ。*6

 ここまでのポイントを確認すると、「すべての市場は相互依存の関係にある」、「相対価格が大事」ということ。で、本気でやるなら「すべての市場」を相手にしなきゃいけないんだけど、さしあたり、きわめて密接な関係を持つ資本市場と労働市場だけを念頭において考える(生産要素市場での変化は、生産物市場に影響しない、と単純化しておく)。

労働問題への対処は、労働市場だけで行うとは限らない

 最初に、均衡賃金は労働市場の需給を一致させるかもしれないが、「均衡賃金では安すぎて、とても暮らせない」かもしれない、という話をした。だから、失業者への保護が必要だ、と。それはそれでいい。ただ、別のことも考える必要がある。そもそも、均衡賃金が安すぎるのは、資本市場が自由すぎるせいかもしれない。資本市場の規制が大幅に緩和されたために、また、情報技術の導入で資本の調達コストが急速に低減したために、労働市場との間のバランスが変わってきているということだ。

 当然、あらゆる場所で、逃げやすい資本に対する報酬を増やすことになる。これは同時に、労働に対する報酬を減らすことを意味する。資本そのものに対する権利が人々の間に偏って存在しているならば、実際に、一人一人に対する報酬も偏って存在するようになる。メカニズムはこんな感じだ(おおざっぱ過ぎて恐縮だけど、年の瀬ということで勘弁してください(関係ないか))。

 とりあえず、部分均衡の枠組みで、その部分の市場を効率化する、というような議論には、きわめて限定された意味しかない、ということ。それは、単に、自然的条件をむき出しにしているだけで、それが効率的なことかどうかは別の話。効率化というのは、(このブログでは何度も書いたことだけど)最大化すべき目的関数が定まった上で初めて言えることだ。だから、仮に「ちゃんとみんな食えている」状態を実現したいのであれば、ある部分市場における規制緩和は、あるいは新たな技術の導入は、その状況から遠ざかるように作用するかもしれないし、そうならそれは問題にされなければならない。労働市場と資本市場の不完全性のバランスが問題なのだから、労働市場が「人は電子マネーみたいに自由に動けない」という条件があるならば、そのような自然的条件を「緩和」することなどできないのだから、資本市場の方にも規制をかけて同じくらいの不自由さをもたせる必要があるかもしれない。

 たとえて言えば、次のような感じ。……規制緩和をすれば資本市場が効率化する、というのは、「グローブを外せば、そのボクサーはもっと強くなる」というようなもの。それはそうだ。「パンチ力の最大化」を目指すのならば、そうすればいい。しかし、既になんのためにボクシングをやっているのかわからなくなってくる。しかも、片方のボクサーはグローブを外そうとしても外せないので、一方だけ外すことになる。当然、もはやボクシングの試合にはならない。「できるだけ安全に、しかし、チャレンジングな状況を作って切磋琢磨させたい」のであれば、むしろ、グローブやルールによる規制が必要だ。

 大事なことは、個々のパフォーマンスの測定値を最大化することではない。実現したい状況を見定めた上で、そこに近づけるよう全体としてバランスを取ることだ。しかし、規制緩和をよきものとする議論の大半が、そうした「バランス」の視点を欠いている。

反グローバリズムグローバリズム礼賛の相似形

 グローバリズムの問題などでも、たとえばクルーグマンスティグリッツは、貿易の自由化は支持するけれども、資本移動の自由化には批判的だったはずだ(批判のトーンが十分に強いか、というと、そうではないと思うけれど)。いつでも自由化がよい結果をもたらすわけではない。

 ついでに言えば、単に「自発的な取引は、自発的な取引参加者の厚生を常に高めるから、自由貿易は正しい」という類の言説は、同様の理由で「資本移動の自由化も正しい」と主張しなければならないはずだ。しかし、そんなことはないのだ。問題は、部分市場がそれぞれどうあるか、ということではなく、そもそもどういう状態を目指しているのか&それぞれの市場の間のバランスがどうなっているか、という点にあるのだから。

 貿易の自由化と資本移動の自由化を区別せずにまとめて反対する反グローバリズムが的を外しているなら、同じように区別せずにまとめて賛成するグローバリズム礼賛も同じかそれ以上に的を外している。現実に起こっている問題の重大さからすれば、グローバリズム礼賛の方が罪深いとさえ言えるかもしれない。


 少し話を戻そう。では、部分均衡の分析には何の意味もないのか。そういうわけではない。分析対象となっている部分市場から、その外の残りの市場への影響が十分に小さいならば、無視してもかまわないと言えるかもしれない。実際にそのような影響の経路が小さい、あるいは、分析対象の部分市場が(全体に比して)十分に小さい、といった場合には、部分均衡の分析でもかまわないと言える場合もある。このような条件が、労働市場一般とか、財市場一般のようなものを相手にする場合に成立するわけはないけれど。

*1:といっても、macska氏の記事の前半がある種の典型である、ということでリンクしているのであって、そのまとめがおかしいとか、その後に展開されている議論を批判しているのだとか、そういうことを言っているのではありません。単に、別の話をしています。

*2:生産要素とは、生産に貢献する何者か、のこと。

*3:これらを区別して分析した方がよいこともあるだろうけれど、これらはすべて所有権の取引という形で地続きになってもいるので、ひとまとめにしたまま分析できることもある。よって、ここでは単純化のため区別しない。

*4:正確には、生産に貢献されるものの中で、市場を通じて配分されるもののすべて、か。

*5:労働に対して相対的に割高になっていく、ということ。

*6:別様に言えば、価格はベクトルとして把握されている、ということ。