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モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

HALTANさんへ、二つめのお返事

 http://d.hatena.ne.jp/HALTAN/20081031/p2
 思うに、専門が云々、というような難しい話ではないです。

まず前提を、それも、一人で考えましょう

「一人一人をちゃんとみんなで守る、そういう社会をコツコツと作っておくべきだった」「この社会を壊したくない、そう思うように一人一人を大事にしておくべきだった」・・・いや、そこで「そういう社会」の具体的なイメージがどうもよく掴めないのですが・・・。

 そういう「具体的イメージ」こそ、専門家に任せてくださるとよいな、と思います。僕からあなたにお願いしたいのは、「具体的イメージを書く」ことではなく、「具体的イメージを要求すること」です。そのためには、もちろん、「社会はなんのためのもの?何を目的にするの?」ということを先に決めておく必要があります。だから、HALTANさんがまずなすべきことは、「この社会はどうあるべきか」、それを、HALTANさんの考えとして、きちんと定め、表明することです。

 というのは、目的が定まらなければ、適切な手段は選べないからです。合理性とは、つまり、目的合理性のことだと思います。だから、まずは「社会正義」をどこかに定位しなければ、手段の巧拙の話もできないのです。

 言うまでもなく、「全員が一緒に生きられる社会を作る」ということが、この社会の、というより、あらゆる社会の前提です。社会正義を、この社会の目的を、まず最初に立てます。そして、一人一人が、この前提に同意していることを、明示的に表現して欲しいわけです。そうしたら、専門家は、その目標に向かって「具体的イメージ」を書く仕事をすることができます。

世間知的にも、朝はサンデーモーニングを観て「格差社会は許せん」と憤り、昼はたかじん委員会を観て「ビンボー人は自己責任、死ねや」と喝采するのが我々世間知大衆なのですから、そこに「一人一人をちゃんとみんなで守る」とか説教されても、具体的に何がどうなるのか、甚だ曖昧でどうもよく分かりません。

 一連の記事は、「「格差社会は許せん」と憤り、昼はたかじん委員会を観て「ビンボー人は自己責任、死ねや」と喝采」しない僕から、「「格差社会は許せん」と憤り、昼はたかじん委員会を観て「ビンボー人は自己責任、死ねや」と喝采」するHALTANさんへの問いかけです。そこで「世間知大衆」なる第三者は関係がありません。そういう「みんな」「たくさんの人々」ではなく、かけがえのない一個人としてのHALTANさんの考え、それをまず知りたいと思うのです。

 もちろん、HALTANさん一人の考えだけを知りたいのではありません。HALTANさん以外のたくさんの人の、その一人一人の考えも知りたいと思います。それほどバリエーションはないでしょう。一番大事なことは、「一人一人をちゃんとみんなで守る」という目標に賛成するかどうか、ですから、基本的には二択です。そして、少しでも物の分かっている人は、賛成しないわけにはいかないのです。だから、全員一致で賛成、もありえると思います。「みんなの考え」とは、「一人一人の考えのすべて」ということであって、「みんなの考え」なるものがどこかにあるわけではありません*1

 だから、問題は、HALTANさんが、一人の人間として、単独で、どう考えるか、ということです。重ねて言いますが、「一人一人をちゃんとみんなで守る」が、「具体的に何がどうなるのか」、あなたがわかっている必要はありません。それは手段に関わる話で、後で考えればいいことです。まずは、社会の目的をどこに定めるのか、とりわけ、HALTANさん自身の選択としてどこに定めるのか、それだけが、ここでは問題になっています。


 セツルメントの話は、とりあえず、ここでの問題に関係があることではないでしょう。次のように分けて考えてはどうでしょうか。ある社会問題が重要であると、(1)社会で広く認知されるかどうかと、(2)わたしがそのように認知するかどうか、という問題は、別のことです。僕は、(1)で考える場合には、時と場所と相手を選びます。それ以外は(2)のレベルで考えるし、そのレベルこそが先に考えられるべきことだと考えています。ならば、セツルメントの運動がどうなったにせよ、その運動が担っていたさまざまな社会活動(医療相談や法律相談)について、(1')その必要性が社会に広く認知されて、担われるのかどうかと、(2')私がその必要性を認知して、担うのかどうか、は別の問題です。そして、僕は、まず、(2')のレベルでHALTANさんに問うでしょう。

 「担うなんてとてもとても」という答えが返ってくるかもしれないので、先に述べておきます。ここでの「担う」は、とても小さな、ミニマムの意味です。あなたが、そのような活動の必要性を認めた上で、「このような活動は必要だよね」と、言葉を発するのであれ、文字にするのであれ、とにかく賛同してそれを表明するのであれば、それも「担う」ことの一部だ、としておきましょう。その上で、HALTANさんは、そのような活動の意義を認め、「担う」のでしょうか。これがここで問われていることです。「世間知大衆」など、出る幕ではありません。「みんな」ではなく、他ならぬHALTANさんがどう考えるか、なのです。

リベサヨとネオリベ

それを片っ端から「自己責任」と言って切り捨ててきた

 この辺りには、それこそ濱口先生が執拗に書いておられるような「リベサヨ」と「ネオリベ」問題もあって、まさに「左」の方も「自己責任」主義を無意識に後押ししてきた面もあるんじゃないでしょうか?…

釈迦に説法で甚だ恐縮なのですが、「自己責任主義が」「新自由主義が」というほどそんなに単純な構図ではないんじゃないでしょうか? 例えばこの辺りの最も象徴的な事例が「地方分権」でしょう(「左」の人は地方分権で自治体・共同体に任せれば-自己責任!-何でも上手くいくという幻想に浸り、「ネオリベ」っぽい人は「この機会にカッペどもを切り離してやろう」「カッペは野垂れ死ね」程度にしか思っていない。にも関わらず何故かこの両者がしばしば共闘する奇妙さ)

 「左翼」と自称する人もいますし、他称されているだけのこともあります。いろんな人がいますね。その中に、地方分権に伴う地方経済の地盤沈下などの問題に冷淡な人がいることなら知っています。しかし、僕はその人に対して責任を負わねばならないのでしょうか?「左翼」として*2

 具体的に言えば、地方経済の地盤沈下、それにともなう様々な問題を、「問題だ」と僕は考えるし、hokusyuさんやRomanceさんやApemanさんも同様でしょうし、僕や彼らに賛同のブックマークやスターをつけたりする人の多くも同様でしょう。それなら、自己責任論的な左翼の方々と連帯責任を負わされなければならないはずはないでしょう。

 「本当に地域間格差を問題視してるの?」とHALTANさんが疑うなら、聞いてみればいいと思います。たとえば、地方分権に際して、都市部と地方部の格差が拡大することに反対ですか?多くが「反対だ」と答えると思います。次に、単純な税源移譲だと、地域間の再分配のしくみがなくなるので、現在の三位一体改革地域間格差を拡大します。いかがですか?ときけば、「それは問題だ」と述べると思います。

 もちろん、どうすればそのような問題を解決できるのか、「具体的なイメージがどうもよく掴めない」はずです。それでも、「一人一人をちゃんとみんなで守る社会を作ろう」に賛成しうる人ならば、ともかく地域間格差は問題だ、というところまでは賛成してくれるでしょう。そして、そこに賛成してくれるならば、後は、基本的には専門家の仕事です。

 別様に言えば、人々がそれを望むからこそ、それを表明するからこそ、専門家はそういう仕事に従事できるのです。だから、「具体的イメージがどうもよく掴めな」くても、「どうしたいか」をちゃんと表明してくれる人は、専門家にとっても必要な存在なのです。

 HALTANさんがいうように、ネオリベと「共闘」している「リベラル左翼」な人は、時々見かけます。テレビなどで特に。それも「左翼」と呼ぶなら呼んでもいいでしょうが、しかし、それは僕とも違うし、HALTANさんと頻繁にやり取りしているはてなの左翼の人たちとも違うでしょう。誰かが勝手に「左翼」という同じ記号で名指している、という点でのみ共通していますが、それは果たして共通点と呼びうるものでしょうか?「「自己責任」主義を無意識に後押ししてきた面もあるんじゃないでしょうか?」というのは、そういう人がいるとして、そういう人は僕とも他のはてなの左翼的人々とも、何の関係もないことです。むしろ、批判もしているでしょう。

 それでも、ちゃんと謝れば、今までの経緯は措いても、「金融システムへの公的資金投入はしょうがないかなあ」と、かなり多くの人が考えてる。「まず謝れ」、その上で、これからは違う政治をやるんだよな、だったら、公的資金投入自体はしょうがないよな。そう考えてる人は結構いる、ってことだ。

 僕において、いかに政治的立場が近くとも、すべての人は「説得の対象」ですから、「謝れ」と書いたのです。それが公的資金投入に反対ないし懐疑的な左翼を説得するために必要だと考えたからです。あなたが「左翼」を説得したいと思っているのなら、それこそ「戦略」を見直すべきでしょう。

 本当にそうでしょうか? そもそも「謝れ」が最優先で、とにかく金融系ビジネスマンや富裕層さえやっつけりゃいいんだよ! 程度にしか思っていない人も多いように感じますけど(印象論)

 印象論だと自覚されているようですので、事実をちゃんとみていただければ理解できるものと信じます。

 僕の記事につけられたブックマークやスターを見るだけでも、結構な人が賛成してくれていると思います。それと、たとえばhokusyuさんについては、記事も具体的に紹介しましたが、どうもお読みになる暇がないようなので、大事なところを引用しておきますね。次のように、明確に書かれています。

…たとえばぼくは経済とか全然わからないんですけど、歴史を鑑みるに金融安定化法案は絶対とおしておかないとまずいと思います。…
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20081002/p1

 もちろん、未だに金融安定化法案そのものに反対している人*3も、探せばいるでしょう。それを僕などは批判もするし、反論もしています。しかし、その点において、「左翼」と他称される人たちの間にも明確に意見の相違があるし、それらを一くくりに批判できるわけがないのです。HALTANさんからは「左翼」という同じ記号で名指しているとしても、中身は別の人、別の考えの人たちですから、一人一人を区別して、その上で批判してくださればよいと思います。念のため強調しておきますと、「左翼」は「天声人語」に連帯責任を負っているわけではないのです*4

・・・話を戻して、mojimojiさんのそうした社会正義優先の主張は、こうした実社会に何の利益ももたらさないどころか余計に貧乏人を苦しめるだけの無内容な詠嘆やスローガンを利するだけなんじゃないかと、拙なんぞはそこを恐れているわけなのですが・・・。

 これは先に述べました。私たちが合理的に物を考えたいならば、それは多分「目的合理性」でしょうから、先に社会の目的、基本前提を確認する必要があり、それが「社会正義」ということです。むしろ、「社会正義を優先せずに、どのように物を考えることができるのでしょうか?」というのを不思議に思います。ひょっとすると、HALTANさんが考える合理性は、「目的合理性」とは別の、たいへんに画期的なものなのかもしれません。そのあたりを是非丁寧に展開していただいて、ご教示いただければ、と思います。

図書館問題

・・・まあmojimoji先生はいいですよね、「お勉強」の際は大学の研究室や大学図書館を使えば済むわけですから。研究費で御本も買えますから(たぶん) でも本もそんなに自腹では買えない、じゃあ街の図書館にでも行くか、という層はそこで「野宿者」と対峙しなきゃならないんですよ。

 だから、図書館ではない、もっとちゃんとしたところが「野宿者」に確保されればいいわけでしょう?この問題で、図書館にこだわっている人なんて、誰もいません。図書館ではないところで、健康相談や、生活支援や、暑さ寒さをしのいだりすることができれば、それに越したことはありません。だから、それをやりましょう、いいましょう、と述べています。緊急避難でしばらく図書館が使いにくくなるとしても、図書館の本は、多くは、貸し出しが可能なものです。「家に帰って」読んだらどうでしょう。そのときに、その「家に帰って」ということの意味を、その家がないことの意味に、思いを馳せていただければいいと思います。

Romanceさんは、福祉職員が図書館に出向くなどして、そちらにつなげてはどうか、と述べています。最初から。問題は、野宿者の生活環境そのものであるのだから、それが図書館であるべきという話などではないのです。最初から。てゆーか、普通に考えたら当たり前のことです。そんなの。

→コームインはもっともっと働け。予算も人手もない? 知るか、おまえらは「一人一人をちゃんとみんなで守る社会」の実現のために討ち死にしろ。こういう話?

 それが可能になるように、人員も増やすべきだ、こういう話です。誰も討ち死にする必要ありませんよ。ご安心を。

 ただし、問題は、HALTANさん自身が、「公園から出て行け」という人が、野宿者の生存権を前提にしているかどうかです。していないんなら、ハッキリと、「野宿者に生存権など認めない」と述べたらどうでしょう。そしたら、少なくとも、一貫はしています。(そして、憲法25条の削除を要請する社会運動でも始めたらどうでしょうか?)

ここは本当にずるい。mojimojiさん、自分の意に沿わない者は生存権さえ認めないに違いない、こういう誘導を使うのは卑怯ですよ。

 HALTANさんは次のように述べてみせればいいんです。(1)「野宿者の生存権は認める」が、(2)「そのために政府が対応する」ことを要求しないのであれば、(1)と(2)がどう両立しているのか、実際に説明するわけです。それが可能でしたら、僕の最初の言い方は、「ズルイ」「誘導」「卑怯」ということになります。僕は「そのような反論はできない」と思っています。だとすれば、「mojimojiに言いくるめられそうになった」ではないと思います。HALTANさんは、自分で自分を言いくるめているのです。でも、僕が気づいていない前提を明示するなどすれば、反論は可能かもしれません。

※たとえば、僕は、「HALTANさんが批判した「左翼」と僕や他のはてなの左翼的人々を指す意味での「左翼」は別のものである」という、HALTANさんが自覚していない前提を明示することで、HALTANさんの主張を批判しました。同様にしてみせれば、できるのかもしれません。


 以上の批判を、HALTANさんは、自分に向けられた批判として受け止めることを、拒否するかもしれません。その点をハッキリさせるために、次の部分について検討します。

だってこちら自身は「野宿者出て行け」とは一言も書いてないし。もちろん「弱者はさっさと死ね」もいかんけど、ただ「公園や図書館で引き受けるのも限界あるしね〜」→「じゃあどうすればいいんだろうねえ、難しいねえ」程度の立場。…

 そのような「どちらでもない」立場というのは、存在しないのです。「生存権」を認めるということは、そういうことなんです。「生存権」が現に確保されていないすべての人について、すべての人が、即座に「どうする?」問い質される、それが「生存権を認める」ということの意味です。

 Romanceさんたちは、「炎天下」「図書館」の二択なら、言うまでもなく「図書館」と述べています。その上で、「炎天下」「図書館」以外の、別の居場所を増やすこと、確保すること、そのようなことを述べています。原則的な問題として答えるならば、これ以上の模範解答があるでしょうか?

 逆に、Romanceさんたちへの批判は、「炎天下」「図書館」以外の具体的などこかを指し示すのではないのですから、「炎天下へ戻れ」ということであり、これは野宿者たちの生存権を否定している、ということを意味します。…もちろん、「出て行け」派に、そのような自覚はありません。彼らはただ、そのような「どこか」は、「どこか」にあるはずだ、自分は知らんけど、ということを述べているわけです。具体的に示されない別の選択肢があるはずだ、自分は知らんけど、そこにいけよ、どこかは知らんけど、こう述べているわけです。「生存権の肯定」と「出て行け」は、「どこか」を示さないことによって可能になっています。これを欺瞞と呼びます。

 繰り返しになりますが、「炎天下」「図書館」の二択なら、言うまでもなく「図書館」と述べるしかないのです。生存権を前提するなら。それを「二択であるかどうか」という点を突破していくことは当然必要なことですが、それは実際に突破されなければならないのであり、「突破されたことにする」では答えとして不十分なのです。

 さて、HALTANさんは「出て行け」と述べていないにせよ、しかし、「難しいねえ」に留まっているわけではありません。明らかに、Romanceさんたちを批判しているのですから。しつこいですが、「二択」である限り、「図書館にいるしかない」、それ以外の答えなどありえないのです。だから、「生存権」を前提にする限り、この点でRomanceさんを批判することはできません。次に、「二択ではない」と主張することで乗り越えるならば、それを実際に乗り越えなければなりません。しかし、HALTANさんはそれもしているわけではありません。だったら、HALTANさんは、一体何についてRomanceさんたちを批判しているのでしょうか?一つの可能性は、そもそも生存権という基本前提を認めてないんじゃないか、ということです。だから聞いたわけです。

 当然のことながら、HALTANさんは「自分は生存権を否定していない」と申し開きをすることができます。僕はそれを全面的に認めます。しかし、そうであるならば、生存権を維持しつつ、Romanceさんを批判する、具体的などのような論点を指摘できるのか、実際に指摘してみせなければなりません。それができないのであれば、Romanceさんを批判することはできない、Romanceさんの主張は、それ自体として認めるしかない、そこまで言わねばなりません。もちろん、答えることそのものを拒否しても構いません。しかし、そうであるなら、HALTANさんからRomanceさんへの批判に何の中身もなかったのだ、と解釈するしかないように思います。

信頼に値する仲間とみなす最低条件

これも自分がよく分からないのが、mojimojiさんはどうしていつもそういうだめなサヨクの人たちにあんなに甘いのだろう、ということです。上述のように「説得」の為なのでしょうか? ただし(こちらも稚拙である、と言われればそれはそうなんでしょうが)、私見で甚だ恐縮なのですが、mojimojiさんとネット上で仲良くしているような人たちはそうした「説得」に応じるつもりは余りないように見えて仕方がないのが何とも・・・。

 言うまでもありませんが、僕から見て、「だめ」ではないからです。繰り返しになりますが、合理的に社会を作っていく、考えていくためには、価値について前提が必要です。その社会は何を目的とするのか、目標とするのか、それについて、最低限の前提が必要です。それが「一人一人をちゃんとみんなで守る社会を作ろう」ということなんです。その目的に賛成であり、かつ、その賛意を表明する人たちが実際にいて、初めて、「一人一人をちゃんとみんなで守る社会を作ろう」が社会の目標として定位されます。これはすべての出発点なのです。

 もちろん、「一人一人をちゃんとみんなで守る社会を作ろう」そのものが、間違っている、という可能性はありますから、それはそれとしてちゃんと問うたらいいと思います。というより、僕は「一人一人をちゃんとみんなで守る社会を作ろう」と明示的に言っているのだから、それは違う、社会は別のことを目的とすべきだ、社会正義とみなすべきだと言うなら、具体的に「」の中を書いて見せたらいいんですよ。そして、複数の社会正義の可能性が「実際に」競合すればいいわけです。

 現状では、「実際に」競合するのではなく、「一人一人をちゃんとみんなで守る社会を作ろう」に対して懐疑して見せるだけで、後は具体的なことは何も言わない、そういう衒学的態度、シニカルな態度が蔓延しています。こうした態度以上に不毛な知的態度はおよそありえないと思いますが、しかし、「態度を決めない」ことの鵺的な強さに魅了されているのでしょうか、こういう態度は実に流行っていますね。邪魔なんですけどね。しかし、現にいるからには、批判していくしかないわけです。

 ですから、「一人一人をちゃんとみんなで守る社会を作ろう」に具体的に賛意を表明する人は、僕にとっては、それだけでも最低ラインは合格、もちろん、その上で、もっともっともっともっと具体的に緻密に考えていきたいし、それも一緒に考えていきたいし、その意味で批判もします(たとえば、toledさんと僕の敵対関係は、はてサの間では周知の事実でしょう)*5。けれども、「一人一人をちゃんとみんなで守る社会を作ろう」に向けたコミットを持つ限りにおいて信頼しているという一点は、そのコミットを放棄しない限り、揺るがないのです。

*1:最終的に、社会的な考え方を一つ選びますが、それは「みんなの考え」ではなく、「社会的決定」と呼びます。必ずしもみんなが賛成したとは限らない決定なのです。

*2:そもそも、僕は、相手が(嫌味として)そのように言うことはあっても、かなり長いこと「左翼」を自称していませんでした。最初のうちは、「右でも左でもない」とか言ってたんですが、「右でも左でもない」人たちのろくでなしぶりを知って、そのように自称することはさすがにやめました。かといって、「左翼」を自称したわけでもないですが。ただまぁ、「右翼」ではないでしょうね。おそらく。最近は面倒なので「左翼」で別にいいや、と思ってますから、自称することもたまにあります。でも、呼称なんて、元々どうでもいい話です。ちなみに、僕はかなり市場重視の傾向があるので、「ネオリベ」と呼ばれることも時々あります。それはそれでわかる話なので、別に嫌だったりするわけではありません。

*3:もちろん、金融安定化法案における、経営者責任追及条項削除など、改悪部分を批判し、反対している人もいますから、そこもちゃんと区別すべきです。

*4:そもそも、あのような「保守」的な新聞、気分が悪いのでもう長いことウェブ以外では読んでいません。

*5:まぁ、toledさんは、「一人一人をちゃんとみんなで守る社会を作ろう」というよりは、「一人一人をちゃんとみんなで守らない社会など認めない」とした方が、今のところは正確かもしれません。