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はてなダイアリーから引っ越してきました。

学力調査結果を公表すべきでない理由

 橋下知事「学力調査の市町村結果、公表すべし」
 学力調査非公表なら「私の責任で公表も」 秋田県知事、いずれもasahi.comより。*1
 上記記事に関連して。


 調査というのは、何を、どういう方法で測り、それにどういう意味があるのかをきちんと考えられる人にとってのみ、意味がある。公表が問題になっているその学力調査というのは、何をどういう方法で測ったのか。そして、測った時点での測定値にはどういう意味があるのか、そういうことも含めて丁寧に検討するのでないならば、結果だけ公表しても意味がない。そして、「結果だけ公表しても意味がない」ということがわからない人に対して公表することは、明白に害がある。

 たとえば、ある地域の学校の教育力を測定したいのであれば、ある時点での学力を測り、なんらかの教育手法を試した後、もう一度学力を測定し、どのくらい変化があったか、ということを問題にしなければならない。また、その場合でも、そこで測定された学力は、学力の一部分でしかありえないのだから、その一部分だけで物事を判断してしまわないよう、幾重にも留保をつけ、その解釈に際しては慎重を期さなければならない。

 そういう調査リテラシーがあたりまえにあるわけではないならば(ない)、ただ学力調査の結果を公表しても、何の意味もない。やるのは、せいぜい、調査結果をランキングにするくらいのことだろう。しかし、この手のランキングを作ることは、むしろ弊害が大きい。「頭の悪い地域」だとか、「教育力の低い地域」だとか、データとは無関係な偏見のあやまった論拠として使用される危険性がきわめて高いからだ。

 また、点数が低いことを問題視し、「点数を上げるためにどうしたらよいか」という方向で施策が検討されはじめるなら、それもまた本末転倒な話である。たとえば、「点数の高い地域、改善が大きい地域に予算配分を優遇する」などといったことをすれば、点数にならない部分の教育は軽視されるようになっていく。学力調査が定義する「学力」を無批判に権威として利用することにより、「学力」について議論をする場そのものが破壊される。

 それでもなお「公表すべき」とか言ってる人たちには、そのデータから一体何が読み取れると期待しているのだろうか。それを使って、どんないいことができると思っているのだろうか。上記したような弊害について一度でも考えてみたことがあるのだろうか。是非教えて欲しい。


 ついでに言うと、「クソ教育委員会」という暴言のみがクローズアップされていることに違和感、危機感を持つ。問題はそんなところにではなく、「学力調査結果を公表させ、その結果を改善するための競争原理を働かせれば教育が改善する」と考えるところの、その競争原理主義の方にある。知事の暴言ではなく、そこに込められた思想にこそ問題があり、それがきちんと批判されて欲しい(せめて検討されてほしい)。

競争やめたら学力世界一―フィンランド教育の成功 (朝日選書)

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競争しても学力行き止まり イギリス教育の失敗とフィンランドの成功 (朝日選書 831)

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*1:そのうちリンク切れになると思いますが、タイトルだけで十分分かりますよね。