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モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

GDP概念の使い方、その2

 憧れの山形浩生さんに反応してもらったよっ!>「GDP というものの考え方について」
 ワクワクしすぎて仕事が手につかないので、先にこちらを終わらせちゃうことにします。

僕はどのような議論を批判しようとしたのか

 先に、「GDP概念の使い方」において、僕がどのようなタイプの議論を念頭においていたかを書いておきます。

A 医療や介護、あと教育に対する政府支出は十分ではないよ。もちろん、生活保護などの所得保障も十分ではない。課税を強化してでも、そうした基本的なニーズを満たすための支出をしっかりすべきだよ。
B いやいや、君の気持ちもわかるけど、そういう政策は経済成長に悪い影響を与えるから、注意しなければいけないね。やるなとは言わないけれど、少なくとも、まずはマクロ経済の回復を待ってから取り組むべきだよ。それが大前提。
A なるほど、そうなのかー

 この手の議論はあちこちにあります。たとえば、今回の山形氏の記事でも、次のように書かれていますね。

 もちろん、GDP という指標の限界はよく知っておく必要がある。GDP が高いからといってすべてオッケーというわけじゃない。ただし、GDP が成長することでパイが広がると、いろんな改革もやりやすくなる。それだけですべてが解決する訳じゃない。でも、経済成長なしで所得分配を解決しようとすると、ある層(たとえば貧乏人)が豊かになるためには、別の層の所得が減らざるを得ない。もちろんその層はいやがるだろうから、改革はずっとむずかしくなる。

 だから GDP はあらゆる経済政策の前提にはなる。でも、それだけをみんなが見ているわけじゃないことは理解しよう。

 GDPは、あらゆる経済政策の「前提」なんだそうです。そんなわけないよ、というのが僕の主張していることです。

何と何を比べているのか

 まず、誤解を正すところからはじめるとしましょう。僕の記事から引用します。>「GDP概念の使い方、まとめ - モジモジ君の日記。みたいな。

 つまり、1970年のGDPと2000年のGDPを比較する、というところが既に間違いなのである。2000年の日本社会の豊かさを比較するためには、 1970年の日本社会の豊かさと比べるのではいけない。正確には次のものを比較しなければならない。実際の2000年の日本社会の豊かさと、たとえば、 1970年時点で十分な再分配制度を導入した上で30年を経た場合の(つまり、「パラレル・ワールド」の)日本社会の豊かさを比較しなければならない。

 僕は、「2000年とパラレル・ワールドの2000年の豊かさを比較する」とは述べていますが、「2000年とパラレル・ワールドの2000年のGDPを比較する」と述べたわけではないんですね。理由はいくらもあります。誰でもわかるように、そんな数字をシミュレーションで出したとしても、仮定の数字が多すぎて使い物になる数字など出てくるわけがないからです。ただし、より根本的な理由としては、そもそもGDPのような量的指標で比較できるようなものではない、ってことがあります。

 この点を詳しく説明しましょう。って言っても、既に書いてあるんですけどね。再度、引用します。

 仮に、1970年以降に実際に行われたよりも、より高額所得者に重い課税を行い、十分な生活保障と医療・福祉・教育への政府支出に回す財政構造をきちんと作ってきたならば、その場合の「ありえた」2000年日本社会の豊かさは、現実の2000年の日本社会の豊かさとは、少なくとも違っていたはずである。その違いはこうである。現在、さまざまな産業領域(たとえばゲーム機や携帯電話や自動車やその他諸々の財を生産する領域)で実現している技術進歩や資本蓄積はもっと抑制的なものになっていたはずだ。とりわけ、富裕層向けの財やサービスの分野ではそうなったはずである。代わりに、医療や福祉や教育分野における技術進歩や資本蓄積が今以上に大きくなっていたはずである。この二つの社会を比較するためには、GDPという指標は使えない。

 ここで、何が比較されているのかをきちんと整理してみましょう。仮に、1970年時点で「実際よりも大きな課税を行い、実際よりも大きな基本的ニーズへの政府支出を行う」ような財政構造が作れていたとします。すると、「基本的ニーズに対応する分野での、資本蓄積や技術進歩の増加、毎年供給される財やサービスの増加」を得ることができます。逆に、「それ以外の分野での、資本蓄積や技術進歩の停滞、毎年供給される財やサービスの減少」をももたらされます。それと、もう一つ、これは前回は書き漏らしているのですが、より大きな課税を行うわけですから、余暇と労働の相対価格を、より余暇が有利な方向へとずらすことの影響を考慮しなければなりません。つまり、課税による労働供給の減少*1が発生します。それにより、賃労働による生産物が総体として減少し、逆に、余暇において享受される各種効用が獲得されることになります。

 というわけで、新たに獲得されるのが1と4。失われるのが2と3ということになります。

1 基本的ニーズの分野での資本蓄積&技術進歩&年々生産される財やサービス
2 それ以外の分野での資本蓄積&技術進歩&年々生産される財やサービス
3 労働供給の減少による労働生産物の減少
4 それに対応する余暇生産物の増加(余暇生産物、というのも変ですが。まぁ、言葉はテキトーで。)

比べたら、つまりどうなのか

 さて、では、獲得するものと失うもの、どちらが大きいのでしょうか?はい、そうです。そんなこと、わかるわけがありません。てゆーか、そもそも、こういうのって「大きいのでしょうか?」で考える問題じゃないんですよ、既に。むしろ、正しくは、「私たちの社会はどちらを選ぶのでしょうか?」と問うべきなんです。言い換えれば、「どちらがより大きいと「みなす」のでしょうか」ということ。そのような、社会的な価値判断をするということです。これを社会的選択といいますね。で、これは徹頭徹尾、政治的なものです。政治的なレベルで議論するしかありません。その議論の中で、GDP指標が果たしうる役割はありません。また、1〜4を価格ベースに置き換えて大小比較する類の、いかなる分析も不要です。

※補足。実際には、この手の分析はいろいろやられてますけど、結局政治的なものを客観的な指標に置き換えようとしても無理なものは無理なので、話がややこしくなるだけのことが多いでしょう。仮に使うとすれば、まずは、そのような分析で測ることについて合意を作って(社会的に選択して)、話はその後、です。

 その議論とやらを、ちょっと具体的に考えてみましょう。たとえば、こういう社会的な変化が引き起こされると、富裕層はあまりうれしくないでしょう。それはまぁ、そうです。自分たちの取り分を減らして、その他の人々の取り分を増やしましょう、というわけですから、丸損です。ですから、反対するでしょう。この反対を、より正確に言うとこうなります。「別になくても死にはしない何かではあっても、自分の取り分が減るのはイヤなんです。だから、あなたはそれがなければ大変困るかもしれませんけど、医療とか介護とか、そういうものは我慢してください」。

 このように主張することは自由です。しかし、私たちは、なくてもそんなに困りはしないだろう富裕層の贅沢と、それがなければクリティカルに生存に影響するような種々の基本的ニーズを比較した上で、どちらを優先するべきかということを選べばいいわけです。さあ、みんなで考えようっ!(で、「クリティカルな医療や介護が後回し」ってことになるなら、仕方ない、みんなで立ち上がろうっ!という話になるんでしょうね。)

GDPはどういう意味で役に立つのか

 では、こういう議論は、現在、なされているのでしょうか?いいえ、なされていません。代わりに、次のようなことが述べられます。「まずは、全体のパイを増やすのが先決ですよ。それこそが、誰かに損をさせるのではなく、全員の状況がよくなるいいやり方なんです。(パレート改善!)」。このような議論は妥当でしょうか?

 結論から言えば、この手の議論は完全なゴマカシです。再分配派は別に、経済成長を否定してるわけじゃないんですよ。だから、このような議論に対しては、次のように答えればよいと思います。「まず、ゼロサムで考えたときに、2と3を諦めて、1と4を優先しましょう。全体のパイの話とは関係なく。その上で、そのような財政構造を作った上で、協力して経済成長を実現しましょうよ。順序の後先の話です。経済成長してみれば、2や3を失ったにも関わらず、あなたの取り分も結局は増えているかもしれませんよ?」

 というわけで、政府の財政構造をどう作っていくかという議論においては、GDPなどというまやかしの前提は外してですね、徹底的にミクロな目で見ていきましょう。何と何を比較しているのかをちゃんとハッキリさせて、それらは根源的には比較不可能なものなのですから、どちらをより重視するかという政治レベルの問題を、きちんと政治レベルで議論しましょう。そこにGDPのような指標を持ち出すのは、まさに、疑似科学だろう、と僕は思います。それ、全然関係ありませんから。

 で、念のため申し添えておくと、僕はGDP概念が役に立たない、とは一言も述べてないんですね。上記したような、政治レベルの問題の後は、GDPなどの量的指標を見据えて必要なことをやっていくべきだと思います。てか、そんなの当たり前ですよ。でも、重ねていいますが、先に、価値についての判断、価値についての社会的選択があります。量的目標は、その社会的選択にしたがって設定されるのです。


 つまりは、ロビンズ偉い、ってことです。ロビンズだけじゃないですけど。折に触れて思うこと、言っていることですが、効用の比較不可能性とか、とにかく「比べる」ことに対して経済学が本来持っていたはずのためらいを、もう少し尊重してください。そういうことを常々思います。「GDPに限界があることなど百も承知!」と勇ましく言うだけじゃ、その限界についてちゃんと考えたことになっているとは限りません。具体的な適用において、一つ一つ慎重に考えていかないと、でないとおかしなことになりますよ、ってことです。

 というわけで、以上。(他の、幾つかの記事や質問への返事にもなっているので、あとで、少し追記します。)

追記のその1、shinichiroinabaさんへのお返事

 2008-08-31 - インタラクティヴ読書ノート別館の別館より。

氏は「マクロ経済政策は、「いかなる社会を作るのか」という価値判断の後に来るものである」とおっしゃっていますが、これに対してぼくの理解するリフレ派の主張は、この文脈に適用して敷衍するならば「マクロ経済政策は、「いかなる社会を作りうるか」についての選択肢の範囲をできるだけ広げることをその眼目とするものである」となるのではないかと存じます。

 経済学を知る人の、割と標準的な認識だと思いますけど、よくよく考えると、これはやっぱり変です。一つの鍵になるのは、たとえば、生産要素の転用可能性、という奴でしょうか。たとえば、任意のベンチマーク的な経済Aを考えて、そこに医療・介護・教育への支出を強化した(当然、課税も強化した)財政構造を作った経済Bを並べたとします。ここで、それぞれを成長させていった経済を考えたとき、やはり互いに比較のしようがないと思うんですね。だって、それぞれの経済では、資本蓄積とか技術進歩とか実際の財やサービスとかの生産が、実際に違うんですもの。で、経済Aをまず成長させて、成長させたところで、財政構造を変えて、経済Bを最初から膨らましたような経済にすることができるかどうか。それはちょっと無理があるでしょう。

 いわば、次のような話だと考えてみたらどうでしょう。いろんな風船があります。船の形をしたのとか、飛行機の形をしたのとか、怪獣の形をしたのとか、ウルトラマンの形をしたのとか。で、それらのさまざまな風船の中から、一つを選ぶ。仮に、飛行機の形をしたのを選んだとしましょうか(これが価値の選択です)。で、膨らましていきます。まだまだやわらかい皺の寄った飛行機風船を膨らまして、パンパンに膨らんだ飛行機型風船にすることはできると思うんですね。しかし、膨らました後で飛行機型風船を船型に変形することはできないわけですね。基本的には。だったら、最初から船型風船を選んで膨らますべきなんです。そういう問題だと思います。

 その意味で、マクロ経済政策が、「「いかなる社会を作りうるか」についての選択肢の範囲をできるだけ広げる」というのは、賛成できません。マクロの政策がミクロ経済政策も含めて作りうる社会の選択肢を広げる、その意味で、マクロ経済政策がミクロ政策の前提として位置づけるわけですが、僕はこれに賛成しません。むしろ、先に社会の形を選択された上で、それを量的に大きく膨らましていくのがマクロ経済政策の役割だと考えます。マクロ変数として集計する以前の実物経済を最初に念頭において考えるなら、そうなるだろう、と。そこが稲葉さんと違うところでしょうか。

 その上で、リフレ政策については支持してますよ。今でも。でも、リフレ政策が効果を発揮するかどうかは、ミクロ的な構造に左右されるのではないか、と最近考えてます。でも、今回の議論ではそこまで言及しておく必要はないと思うので、ここで一旦切り上げておきます。

*1:とは限らないんだけど、面倒なので、そういうことにしておきます。