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モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

GDP概念の使い方、その1

 GDP概念の、というより、その使い方の批判。まずは、わりと有名な次の本から。
 

いろいろ問題あるけど、やっぱり使えるよ

 ロンボルグが「インフレ調整済みGDPは豊かさの指標として適当か?」と題された一節でGDP概念について議論しているのは、121ページから123ページのところ。整理してみよう。

 まず、GDPが富の指標として使う場合によく指摘される基本的問題を、ロンボルグは三つほどあげている。第一に「GDPは正式な市場の外で生じる生産を含まない」ということ。家事労働とか、そういうやつ。第二に、「地下経済を考慮に入れていない」こと。もちろん、犯罪組織の活動とかなら、どちらかといえば人々の厚生を低めている可能性の高いから考慮しなくてもいいようにも思うのだけど、ここではむしろ、所得申告されていない副業などが重要。そっちは考慮する必要があるので。で、第三に、僕らの生活を豊かにするわけではないマッチポンプ的なコストも含むということ。たとえば、環境問題や社会的要因に起因する事故や病気への対策、増大する通勤コストなど。

 ロンボルグはこうした要因から「確かにGDPを実際の富のものさしとして使うことをむずかしくしてしまう」と認めた上で、それでも、「もっと正確な指標を使おうという試みがなされたけれど、結果は国民統計とほとんどちがわなかった」というデンマークの調査に言及し、「GDPは富の指標として適当だと主張できる」と結論する。


 もう一つ、長期間にわたるGDP指標を用いること、たとえば「昔と今の豊かさを比較する」というような使い方に関する問題にも言及する。よく言われるように、経済発展にともなって、「非公式経済と不正経済の双方の規模がだんだんと小さくなる」傾向がある、とされている。つまり、先述したような歪みは、単にデータが歪むというのみならず、「最近の豊かさを過大評価する」傾向を持つ、ということになる。これもよく指摘されるところだろう。

 しかし、ロンボルグは、それは認めた上で、これを相殺するような別の論点を提示する。すなわち、商品の質の変化(向上)である。長期的に、商品の品質が大幅に向上しているのに、同じカテゴリの商品が以前と同じ価格(少なくとも、インフレ分以上の上乗せのない価格)で購入できるとすれば、それはGDPの「過小評価」の要因となる。というわけだ。

 あと、ちょっとわかりにくいけど、インフレの程度を評価する場合の物価指数の歪みも指摘されている。物価指数というのは「どの財に注目するか」によって結論が変わってくる。たとえば、パソコンのような新商品が普及し始めた頃は、パソコンの価格変化は消費者物価指数(CPI)を測るための対象に含まれていない。その結果、パソコンにおける大幅な価格下落はCPIに反映されず、インフレは過大評価されることになる。

 以上を踏まえて、ロンボルグは次のように結論する。

このように、非公式経済、あるいは不正経済を広く包括するため、GDPは時を経るにつれて、富を全般的に過大評価してしまう傾向にあるということをさっき見てきた。ところがこんどは、GDPで計った経済成長は、インフレ調整によってすさまじく過小評価されてしまうこともわかった。だからGDP指標は、たぶんそこそこ適切な富の指標となっていて、長期的には富を過大評価するよりも過小評価しがちなのだ、と結論づけていいだろう。(p.123)

政策の目的をどこにおくか

 僕は、以上のロンボルグの議論を、基本的に受け入れていい、と思っている。しかし。政策の目標を「GDPの増大」に置くことにはならない。たとえば1970年のGDPよりも2000年のGDPは大きい。このとき、先述したようにGDP概念には様々な歪みがあるけれども、でも、「より豊かになったのだ」といっていいのだ。そして、その延長線上で「GDPの増大」を目標として政策を考えてよいのだ、とはならない。ロンボルグの議論を受けいれた上でも、そのように述べられる。

 つまり、1970年のGDPと2000年のGDPを比較する、というところが既に間違いなのである。2000年の日本社会の豊かさを比較するためには、1970年の日本社会の豊かさと比べるのではいけない。正確には次のものを比較しなければならない。実際の2000年の日本社会の豊かさと、たとえば、1970年時点で十分な再分配制度を導入した上で30年を経た場合の(つまり、「パラレル・ワールド」の)日本社会の豊かさを比較しなければならない。

 仮に、1970年以降に実際に行われたよりも、より高額所得者に重い課税を行い、十分な生活保障と医療・福祉・教育への政府支出に回す財政構造をきちんと作ってきたならば、その場合の「ありえた」2000年日本社会の豊かさは、現実の2000年の日本社会の豊かさとは、少なくとも違っていたはずである。その違いはこうである。現在、さまざまな産業領域(たとえばゲーム機や携帯電話や自動車やその他諸々の財を生産する領域)で実現している技術進歩や資本蓄積はもっと抑制的なものになっていたはずだ。とりわけ、富裕層向けの財やサービスの分野ではそうなったはずである。代わりに、医療や福祉や教育分野における技術進歩や資本蓄積が今以上に大きくなっていたはずである。この二つの社会を比較するためには、GDPという指標は使えない。


 つまり、GDPは、私たちが「どんな」社会を作ろうとしているのか、ということを問うときに使う指標ではない。この意味での比較は、GDP概念ではできない。なぜなら、100万円の医療機器と100万円の自動車は同じ価値であり、ゆえに、同じ豊かさをもたらすものである、というのがGDP概念が前提する価値理念だからだ。そのような捨象をするがゆえに、GDPは大事なことを教えてもくれる。しかし、捨象している、という事実を忘れたときには、むしろ議論を混乱させる。

 私たちが、たとえば、「今よりも一人一人にとっての基本財をちゃんと保障できる経済を作るべきかどうか」という議論をするときには、GDP概念の出る幕はない。そのような経済を作るべきだ、という目標を定めた後であれば、「基本財をちゃんと保障しているGDP500兆円の経済」と「基本財を保障しているGDP400兆円の経済」であれば、前者の方が豊かだ、という議論をしたっていい。しかし、「基本財を保障できていないGDP500兆円の経済」と「基本財を保障しているGDP400兆円の経済」は、本来、比較不可能である。100万円の医療機器にできることは、100万円の自動車にはもちろん、200万円の自動車にもできないのだから。*1


 マクロ経済政策は、「いかなる社会を作るのか」という価値判断の後に来るものである。経済学を全然知らないのが問題だとして、マクロ政策さえあればいいかのように言う半可通も同じくらい問題ある。マクロ政策はミクロ政策の代わりにはならないし、価値についての議論を不要とするものでもない。経済は、「パイの大きさ」というときの、どこを切っても同じ「パイ」であるというような均質なものではない。むしろ、「幕の内」みたいな、個別の要請に応える区別されたさまざな料理の組み合わせであることを忘れてはいけない。