モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

「普遍性」を批判/拒否すること

 「改良か革命かみたいな話をした覚えはないけどな」@無産大衆
 最近、ブログ巡回をほとんどおやすみしてて気づいてなかったのですが、僕への言及があるのを見つけたので。

権利は個別利害以上のものである

ああ、てかな、良い経営だとか適正な市場とか寝言はどうでもいいから金(飯)寄こせ、馬鹿。て言えないようでは権利とか意味あるんですか?つー話なだけです。

 まず、madashanさんの記事の核心と思われるこの部分から。

 まさに、このような意味で、たとえば「株主の権利」などが主張されてきたように僕は思います。労働市場や資本市場におけるルールの変更は、まさにこのようにして要求されてきました。まぁ、一応の「みんなのため」的エクスキューズはあちこちにありますけどね。他方で、そんなエクスキューズはエクスキューズでしかないということを自明なものとして、本音爆発の人はあちこちにいるわけです(ちょっと古いですが、ホリエモンとかそうでしたね)。

 こういう流れに対して、同様にこちらはこちらの「権利」を、madashanさんが言うような意味で主張するというのは一つの道でしょうけど、それは既に「主張」ということの意味を失っています。双方が大声を出しているだけで、双方の間にある共通の基盤にある言葉たろうとすることをやめているからです。共通の基盤たりうるものとは、「普遍性」とか、「正当性」とか、「全体」などと呼ばれるもののことです。(で、結局は強い方が勝つということでしょうが、そのようなことに何か意味があるでしょうか?)

 もちろん、その「普遍性」や「正当性」や「全体」が、「予め定められたところの」ものであるならば、そんなものは犬にでも食わせてしまえばいいと思います。そうではなく、こちらは、「経営者」や「株主」が主張するところの(エクスキューズするところの)「普遍性」や「正当性」や「全体」とは違う内容の「普遍性」や「正当性」や「全体」を示し、それに拠って対抗していくわけです。大事なことは、提示された「普遍性」や「正当性」や「全体」の内容に反対することと、それらを概念として拒否することは別のことだ、ということです。

 その意味で、「権利ってそもそもその権利者の利害関心を反映させるためにあるんじゃなかったかしら?」というのは、「権利」概念の半分でしかないと思います。それは個々の当事者の利害関心そのものの反映であると同時に、「普遍性」や「正当性」や「全体」という概念と結びつけられたものです*1。そうでなければ、逆に意味がないでしょう。

「普遍性」とか「正当性」とか

 だから、僕は「良い経営だとか適正な市場とか寝言はどうでもいいから金(飯)寄こせ、馬鹿」とは言わないし、そのような言い方に、一般的には同意しません。

 誤解のないように注意を促しておきますが、「一般的には」です。個別的に言えば、一定以上の資産家がこれを言うときには同意しませんが、不安定雇用等々の境遇にある人がこれを言うときには同意します。それは、この文言が一般的に正しいからではありません。不安定雇用等々の境遇にある人においては、その人たちの生存権等々の「普遍性」や「正当性」の基盤についてあらかじめ僕が了解しており、ゆえに、それらと結びつけて「よこせ」の主張が成り立つだろうと、僕が(補って)理解しているからです。その一方で、十分に「持てる」人においては、そのような喫緊の要請などないと僕が認識しているから、一定以上の資産家については同意しないわけです。

 ここはmadashanさんへの批判というわけではないのですが、意外に大事なポイントなので丁寧に述べておきます。「普遍性」とは、「普遍性」の語法に基づかない主張に対しても、「普遍性」の語法をうまく使えない人たちの利害に対しても、同様に適用されて初めて「普遍性」であるはずです。ゆえに、仮に「普遍性」の語法から外れた主張であっても、そこに「普遍性」の語法で理解しうる内実があるならば、その内実を擁護することは、「普遍性」という概念からすれば当然に要請されることです。「普遍性」の語法とはずれた語りにおいても、「補って」理解する、という態度が当然のものとして要請される、ということです。それは「能力として」いつでも可能であるとは限りませんが、少なくとも、私たちの「あるべき態度として」いつでも要請されている、ということです。

 別様に述べてみます。僕は「良い経営」だとか「適正な市場」について考えること、語ることは必要だと思いますが、しばしば、「語れない人の利害は無視されて良い」という状況が作り出されています。その原因は、「良い経営」や「適正な市場」について語る/語れる人たちが、自分たちの利害に関わる「良い経営」や「適正な市場」について語る一方で、語れない人にとってそれがどうであるかについては誰かに指摘されるまで知らんフリをし、指摘されても「わからない」フリをし、といったことを平気でするからです。つまり、「普遍性」概念を「普遍的に」使用していないのです。ゆえに、仮に「普遍性」の語法を用いているとしても、そこに「普遍性」ではありえない排除と選別があるならば、そこを「補って」批判するという態度が当然に要請されるわけです。これも「能力として」いつでも可能であるとは限りませんが、少なくとも、私たちの「あるべき態度として」いつでも要請されている、ということになります。

 こういうことを指摘すると、「なんで利害対立している自分が考えてやらなきゃいけないのさ」みたいなことをいう人がいますが、それは「普遍性」という概念に訴える以上は当たり前のことです。なるほど、都合の悪いところには知らんフリをする、というインセンティブがあるということは事実です。しかし、それは、このような態度が正当であるということは別の話です。で、正当/不当という文脈でいうならば、このような態度は明らかに不当です。「普遍性」は「普遍的に」適用するのでなければならないのは自明でしょう。

まとめ

 madashanさんは「「良い経営」や「適正な市場」についてなされている現実の語り」を相手にして批判しているわけです。その部分においては、僕はまったく同意するものです。「そんなものは当事者たちが守らなければならないものでもないし、彼らの行動を彼ら自身が決めるにあたって考慮すべき事柄でもないだろうし、ましてや道義的必然であるかのように押し付けられる筋合いはありません」というわけです。そこは完全に同意できます。

 ただ、先にも述べたように、それに対抗するときには、僕らは異なる「良い経営」や「適正な市場」を提示するのであって、提示された「良い経営」や「適正な市場」の内容に反対するのであって、「良い経営」や「適正な市場」という概念を拒否するのではない、ということです。提示された「普遍性」の内容に反対するのであって、「普遍性」という概念を拒否するのではない、ということです。madashanさんの議論は、その点を踏み外しているように見えますので、そこには僕は同意できませんし、はっきり「まちがっている」と主張しておきたいと思います。


 まとめついでに言えば、労働組合の活動について、「利用可能で有効な道具立てがそこにある以上はそれを使用して自己の利益を確保するのは自明な行為であるでしょうし、それについて一々予め正しさを云々する方が奇妙です」という主張には同意できません。こんな理屈がまかりとおるなら、御用組合さえもが、「利用可能で有効な道具立てがそこにある以上はそれを使用して自己の利益を確保するのは自明な行為である」として批判できなくなってしまいます。

 というより、「それが規範化を生むとか、あるいは既得権を作りだすとか、従って選別と排除が行わるとか、組合それ自体が特殊利害を持って組合員個人を搾取するとか、そうした理屈の問題は成程現実のものとなれば理非を問わずには済まないでしょうが」というところ、むしろ、既に事態はそういう段階にあるんですよ、ということ。「一々予め正しさを云々」しないところでは、いつでも即座に、この種の「選別と排除」が顔を出すように思います。だったら、最初から「一々予め正しさを云々」すべきなんですよ。むしろ。

 もちろん、人は「必要に応じて」要求し、「能力に応じて」正しさを云々する、ということでいいんだと思いますけどね。先にも述べたように。

*1:逆に、それが個別の利害関心に関係したものであるということを指摘しただけで、そこで述べられた「普遍性」や「正当性」や「全体」という概念が欺瞞に過ぎない、という批判がなされることがありますが、これもまた同様に的外れなものでしょう。