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はてなダイアリーから引っ越してきました。

労働者が余っているのか、支払いが足りないのか

 「経営がわかっている労働者と、わかってない労働者の格差が拡大していく本当の理由」@起業ポルノ
 気軽に「生産性が下がる」とか、「労働者が余っている」とか書いてるんだけど、そのように述べるときの前提を考えてみようかな、と。とりあえず「労働者が余っている」について。


 「単純労働者が余る社会になる」とか書いてるわけですが、そもそも、医療や介護の充実が社会的課題になっている昨今、医療や介護の従事者がどこでも不足しています。その意味で、つまり、現場レベルでいうならば、「余って」などいません。他方で、医療や介護の技術を習得しながら、その仕事に就いていない人が結構たくさんいます。賃金が安すぎる、労働環境が苛酷過ぎるので、敬遠されているわけです。その意味では「余って」います。単純な話です。医療や介護では報酬が政府によってだいたい決まっているわけですが、その水準が低すぎるので、こういうことが起こるわけです。

 では、医療や介護の報酬を政府が決めるのをやめて、市場に任せればいいのでしょうか。まぁ、そうもいきません。というのは、医療や介護が必要な状態とは、労働することが困難であることとほぼ重なるので、基本的には医療や介護の対価を支払うだけの収入がありません。収入がない、働けない、という意味ではありません。介護や医療の費用をまかなうほどには収入がない、働けないことが多い、と述べています。

 で、その場合に、「収入が足りないので医療や介護が買えません」を「収入が足りないのでベンツが買えません」と同じように扱うのであれば、つまり「死んでください」といっているのと同じですが、それはそれで首尾一貫しています。逆に、「死んでください」と言わないのであれば、同じように扱うわけにはいかず、「収入が足りない人には収入を足して、医療や介護を買えるようにする」ということになります。つまり、社会全体による「支払い」が足りない、課税と再分配が足りない、ということなわけです。これは私たちの社会的決定の問題です。

 ここで整理します。冒頭の、現場レベルでの「医療・介護の従事者の不足」とは、「医療・介護を必要とする人のニーズに対する不足」です。次の、「医療・介護の従事者の余剰」とは、「医療・介護への支払いに対する余剰」です。労働者が余っているというべきか、支払いが不足しているというべきかは、価値判断の問題です。「労働者が余っている」という人は、医療や介護を必要とする人は死んでください、といっているに等しいわけですけど、それはそれで一つの見識というものです。僕は同意しませんけど。いずれにせよ、それを客観的事実の問題であるかのように語るのは、そこにある政治性の隠蔽として作用してしまうことは否めません。


 医療・介護は別の話、一般的な「単純労働者」のことを述べているのだ、とおっしゃるかもしれませんね。でも、医療はともかく、介護の場合には、十分互換性のある範囲だと思います。コンビニの店舗管理にせよ、その他のさまざまなサービス業にせよ、「単純」とかいいながら結構複雑なことやらされてると同時に、単調なときはとことん単調で、むしろ単調さに耐える力が要求されます。結構、高い水準の労働を要求されてますよ、「単純労働者」の方々は。(こないだの増田の記事でも紹介しておきます。>「現役高卒の俺が低所得者の重要性を教えてやんよ」

 で、介護労働者の所得水準が十分に向上するならば、労働供給の水準を一定とすれば*1、介護労働者と互換性のある水準の労働者の賃金は全体としてあがるでしょう。そんな風に市場はつながっていますから、「単純労働者が余っている」という認識は、医療や介護への現状認識(広くいえば、この社会において「生存」がどのように扱われているか)と切り離して考えることはできません。

 つまり、同じ現象について、「労働者が余っている」というか、「支払いが足りない」というか、そこには価値判断が含まれますし、そこに政治的なものがあるわけです。という主張は維持されます。


 それにしても、「商品開発やマーケティングやリーダー・マネージャ」ってのが、そんなにエライんでしょうかね。次のように考えてみればいいと思うけど。すなわち、近年開発されたさまざまな新商品、新サービスの中で、要介護者が必要とする日々の介護サービスよりも重要な新商品、新サービスって何かありましたかね。誰かの日々の命を支える財よりも価値のあるものって、何かありましたかね。そっちの方が「儲かった」というのは言うまでもないことですが、では、そちらの方が「価値があった」といえるものでしょうか。そんなもの、ないと思いますけど。

 生存以上のものに関わる財、一口に文化に関わる財といっておくけれど、それらが無意味だというわけではありません。価値あるものです。ただ、生存そのものに関わる財あってこそだし、他者の生存に関わる財よりも、自分の作った/自分の好きな文化に関わる財の方にこそ価値がある、優先されるべきと考え始めるならば、それは許しがたい傲慢というべきです。

 儲かるということと、価値があるということの、その不一致が見えなくなることが、つまり、拝金主義ということなんですけども。でも、それって意図してやったことではないですよね。一度、深呼吸して考え直してみることをオススメします。(さもなければ、誰かの生存より、オレのマンガやゲームやその他諸々の方が価値がある、と言い切ってみることです。)

*1:これは、労働曲線がシフトしない、という意味であり、労働曲線に沿った賃金上昇への反応としての増加を考慮しない。という話は、わからん人にはわからんのはしょうがないと思うので、無視してください。