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モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

お題三つ

 なんか書いておかないとムカムカするものを立て続けに読んでしまったので。リンクはしません。あー胸糞悪い。


 「大文字の」正義を「声高に」主張するとか、よく言われるんだけど、どうしてこういう形容詞がついているのか、意味がわからなかったのだが、なるほど、その人たちに「小文字の」正義を「ヒソヒソと」主張している自覚があるのだとすれば、話は分かる。そうだよなぁ、結構ポロポロ言ってるもんねぇ。自覚はあるわけか。

 でも、「大文字の」正義を「声高に」主張することを「禁欲」する、とかまで言うんなら、「小文字」「ヒソヒソ」も一緒に「禁欲」してくれたらいいのにな、と思う。

 あるいは、「禁欲」というなら、こちらはこう思う。ローカルに、アドホックに、自分に都合のいい「正義」を主張するよりは、より普遍的な概念に連結させることによって、自らの主張しうる「正義」の範囲を抑制したいと思う。自分の考える意味での「禁欲」とは異なる「禁欲」があることはご想像できないのかもしれませんが。


 それとさ、「今を生きる他者」って何だよ。たとえば、「もう死んだ他者」はどうでもいいってか。で、「もう死んだ他者」と「今を生きる他者」の両方の呼びかけに同時に応えうる言葉を紡ごうと努力することは、<他者の呼びかけよりイデオロギーの貫徹を優先する>態度か。んなアホな。

 「もう死んだ他者」にできることは何もないから、それは無視する、というのは一つの見識ではあろう(同意はしないけど)。しかし、そうであるならば、それもまた<(もう死んだ)他者の呼びかけよりイデオロギーの貫徹を優先する>態度であることくらいは自覚したらいいんじゃないですかね。自分の言う意味での「他者」とは異なる「他者」がありうることをご想像されればいいと思うのですけれど。


 ラディカリズムの露出には僕もしばしば辟易していますが、それはともかく、アポリアを前に唸ってみせるのがイヤだというのは、アポリアアポリアと認めるのがいやだ、と言っているに過ぎないのですが。実践においては、アポリアがあろうと何であろうと、何かはやらなければならないわけですが、だからといって、やった何かを「正当化する」というのは別の話。

 そこで「愚直な原則論」などと言い出すのは、思想を行動に従属させるという話で、それこそスターリニズムを生み出したものじゃないかと思いますけどね。思想に行動を従属させることができない場面がある、そのときにはもう、思考と行動を切り離す=決断しかないのであって。決断なんて全然いいものではないですけどね。でも、「愚直な原則論」などと言って権威づけしてしまうよりよほどマシ。

 「愚直な原則論」が要請されるのは、「決断」に耐えられないからなんだろうな、と思います。トリアージ論争もそういうものでしたしね。「決断」はしなくてすむならしたくないですし、誰にさせたいものでもありませんが、しかし、「愚直な原則論」とかいって「決断」をアウト・ソーシングするようになったら、その「決断」の結果を蒙る人の立つ瀬がない。そういえば、そういうのがナチズムを支えたんじゃなかったでしたっけ?