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「ニコニコ現実」はそもそも擁護されているのか?

 「「ニコニコ現実」のプロトタイプとしての「ニコニコ大会議2008」 - 濱野智史の個人ウェブサイト@hatena」について。


 本文末尾では、「ニコ動文化圏を否定したくて書いたのではありません。どれだけ、ニコ動文化が、くだらなくて低能で能天気なものにしか見えなかったとしても、僕は基本的にそれを擁護するつもりです」とあるんだけれども、実は、その「擁護」というのは本文のどこにもありません。ただ、次のように書かれています。

……だから僕には、いいか悪いかの判断は別として、もうそれは避けることができないと思っています。しかし、だからこそ、「ニコニコ現実」的な仕組みがいつか本当に訪れたとき、私たちはどうなるのか/どうすればいいのかを、いまからシミュレートして考えておいても、それほど無駄ではないと思うんですね。

 元々の議論は、「ニコニコ現実」の評価をめぐってなされていたはずです。かたや「新しいコミュニケーション」「パラダイム・シフト」とする肯定的な言説があり、かたや「それはイジメだ」という批判的な言説があった。どういう評価をするにせよ、それが「不可避である」なら、それを踏まえて考えることがあったりなかったり。肯定的なものと評価し、かつ不可避であると考えるなら、別に困ったことはありません。しかし、否定的なものだと評価し、かつ不可避であると考えるなら、これは何か考えるべきでしょう。そして、批判している人は総じて「考えるべきだ」と言っているわけです。

 濱野氏は「擁護したい」と言いつつ実際にはそれをせず、ただ「ニコニコ現実化は不可避」という前提を置いてしまうわけです。その上で、批判に対しては「そんなにニコ動文化圏を「いじめ」て、楽しいんですか」と述べて直接的な応答はしない。批判に同意できないならできなくてもいいと思いますが、「そんなにニコ動文化圏を「いじめ」て」と批判を矮小化するのではなく、「ニコニコ現実がよいものをもたらす」or「悪いものをもたらさない」という主張をする必要があるはずです。

 その上で言いますと、ニコニコ現実化が不可避であるとして、ちょっと読んでいるだけでも「ニコニコ現実化って結構怖いなぁ」とか思うわけです。たとえば、「「人格システム」を先にニコニコ現実的な仕組みに適応させてしまう」とかあるんですが、それってマジなんかなぁ、と。「総芸人化社会」とか、それなんてディストピア?って感じだし。それでも「望ましくはないが不可避だ」というなら、「ホントに不可避なん?」とは思いますけど、まだ理解可能です。そうではなく、「擁護したい」というのなら、それは肯定的な何かとして「擁護したい」のしょうから、それをちゃんとしてみせてほしいですね。

 今のところ、ニコニコ現実化を擁護ないし問題にしない人というのは、(1)(本記事のように)心情的にそれを表明していたり、(2)「あれはイジメじゃなくてイジリだ」と検討抜きに前提したり、(3)「委員長」とか「PTA」とか揶揄したりしているだけで、実際に擁護したりはしていないわけです。ニコニコ現実擁護の皆さんには、そのあたりを論じていただきたいなぁ、と思います。「擁護」をちゃんと聞いた上で、それを踏まえて批判しなおすなり、撤回するなり、したいですし。