読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

杉田俊介『無能力批評』に応答する

 杉田俊介さん(id:sugitasyunsuke)の書かれた『無能力批評』に、このブログへの言及があると聞いてたので、買ってきて読まなければと思ってはいたのだけれど、先日、親切な方からトラックバックをいただきました。もう少し考えてからにしようかとも思ったのだけど、この記述が一人歩きしそうな気配もあるので、とりあえずの二つのことを述べておこうと思います。

 ちなみに、杉田さんが引用した文章は、「「勝ち組」からの応答──赤木論文を検討する」ですが、その二日後に書かれた「「勝ち組」が「勝ち組」に向けて語る」は無視されています。単に、気づかなかったということかもしれませんが、いずれにせよ、それも踏まえて考えるならば、杉田さんの書かれているような批判にはならないはずだとも思います。

「勝ち組」にとっての「痛みと失語」の入り口

 しかし、有島/mojimoji氏には根本的な違いがある。mojimoji氏の盲点は、「勝ち組」である自分の金銭や生活財を、卑近な他者に分配する可能性が真剣に考慮されていないことです。「家族のため、親のためだから今の生活水準維持は仕方ない、棄てられない」という論理が、あらゆる「勝ち組」が卑近な実行をスルーするために最後に口にする自己正当化だ、という失語と痛みを通過した傷痕と翳りがないのです。自分や家族の生命が奪われる、と本気で信じていない。この「安心」自体が、生活ゾーンの分断からもたらされているのに。(略)
 滅私奉公せよ、と言いたいのではありません。ぼくにはそんな資格はない。ただ、「黙って死んでくれ」「弔う」「感謝する」と口にする前に、まず自らが試みうる卑近な事柄が、山ほどある。言葉と実行、理論と思想の一致を無限に目指し続けること――その永久に解消不能な矛盾を分裂的に生きながら、その上でなお「書く」ことです。

 まず、確認しておきます。「家族のため、親のため」だから仕方がない、と述べる人たちの、一体どれだけの人が「黙って死んでくれ」という身も蓋もないことまで言っているというのでしょうか?むしろ、それを言わずに済ませている、済ませようとしている人が圧倒的多数だ、と思いますが。

 「家族のため、親のため」とは、なくても別に困りはしない贅沢の話ではありません。当の赤木氏自身が、生存だけでなく、尊厳を求めています。しかし、生存も確保されない誰かがいるならば、自らの尊厳は過ぎたものなのかもしれない、そのような不安はどこかにあるでしょう。だから、「家族のため、親のため」を口にする人は、それが誰かに対して「黙って死んでくれ」を含意するとしても、それを明示的に認めようとはしないのです。これはある種の自己欺瞞であろうと思います。

 だから、僕はそれをきちんと明らかにせよ、と、まずは求めているのです。「家族のため、親のため」がどれほど切実なものであろうと、それは現に生きられない他者がいる限り、その人たちに向かって「黙って死んでくれ」と述べることでもあるのだ、と。僕が思うに、そこが「勝ち組」にとっての「失語と痛み」の入り口です。まともな人間であるならば、少なくとも「黙って死んでくれ」をハッキリと口にするときには、そこに「失語と痛み」が生じるだろうと期待します。その程度には、僕は大多数の人を信頼してもいます。そして、その先にのみ「自らが試みうる卑近な事柄」が真剣に考えられるのだろうと、そのように考えます*1

 しかし、「失語と痛み」を潜り抜けたとして、「家族のため、親のため」を手放せるはずもありません。それは生存を超えたものですが、生存の意味を与えるものなのですから。他方で「黙って死んでくれ」に開き直ることもできません。ではどうするのか。だからこそ、これら二つの矛盾を乗り越えるために、この二つを矛盾させている世界のあり方そのものを変える、そのために何ができるかを考え始める、それが最低限の責任だろう、と僕は述べているわけです。──より詳しくは、「「勝ち組」が「勝ち組」に向けて語る」に書きました。その中で、僕はこう述べています。

 赤木論文は、「負け組⇒勝ち組」のメッセージ。このメッセージに対して応答するとは、二つの応答が必要だと考える。一つは「勝ち組⇒負け組」で、それが「「勝ち組」からの応答──赤木論文を検討する」。……これは「身も蓋もない話」だ。しかし、「負け組」とは、定義上、「奪われた人」なのだから、「負け組」に何ができるわけでもなく、「勝ち組」であるにせよ私一人に今すぐどうこうできるわけでもなく、あのように答えるしかない。しかし、その身も蓋もなさを確認することは大事な出発点である。というのも、この身も蓋もなさを確認することによって、「勝ち組である私」と「負け組」というフレームワークがそもそも間違っているのだ、ということに気づかざるをえないからだ。そこで、赤木論文への応答としては、「勝ち組⇒勝ち組」のメッセージが書かれねばならない。それは、「私以外の勝ち組への呼びかけ」につながって初めて、応答たりうるのだと思う。

 さて、杉田さんの本から、もう一つ、引用します。

ただ、「黙って死んでくれ」を書くにもかかわらず自らは真に「沈黙」できず、「何もしない」と明言するにもかかわらず言葉上で無償の「応答」だけはせずにいられない、その重層的な「弱さ」の中に最悪の罠があると思うばかりです。(p.47)

 僕は「何もしない」とは書いていません。僕はやっていることがありますが、それが「今日死に行く人」に届かない、間に合わないとすれば、その人に対しては「何もしない、していない」、そのようにしか言いようがないということを述べています。そして、「それを踏まえて何をするのか」という問いにつなげています。無償の「応答」だけで終わらせないためには、「勝ち組」が「勝ち組」に向けて語ること、「勝ち組」こそが運動への自己投企すること、それが必要なのだと述べているのです。だから、この部分の杉田さんの批判は、僕にとっては酷い歪曲だとしか思いません。──逆に、まるで「沈黙」を要求するかのような、杉田さんの記述の中にこそ、僕は「最悪の罠」を感じます。「勝ち組」の沈黙こそが、「勝ち組」の自己欺瞞を守り、現在の問題の主たる原因と化しているからです。

語られないことは、存在しないのではない

 もう一つ、これは僕という個人に対する杉田さんの物言いの問題です。言わずに済ませようかとも思いましたが、やはり少し書いておきます。先の引用をもう一度示します。

 しかし、有島/mojimoji氏には根本的な違いがある。mojimoji氏の盲点は、「勝ち組」である自分の金銭や生活財を、卑近な他者に分配する可能性が真剣に考慮されていないことです。「家族のため、親のためだから今の生活水準維持は仕方ない、棄てられない」という論理が、あらゆる「勝ち組」が卑近な実行をスルーするために最後に口にする自己正当化だ、という失語と痛みを通過した傷痕と翳りがないのです。自分や家族の生命が奪われる、と本気で信じていない。この「安心」自体が、生活ゾーンの分断からもたらされているのに。(略)
 滅私奉公せよ、と言いたいのではありません。ぼくにはそんな資格はない。ただ、「黙って死んでくれ」「弔う」「感謝する」と口にする前に、まず自らが試みうる卑近な事柄が、山ほどある。言葉と実行、理論と思想の一致を無限に目指し続けること――その永久に解消不能な矛盾を分裂的に生きながら、その上でなお「書く」ことです。

 杉田さんが引用した「勝ち組」からの応答──赤木論文を検討する」の中で、僕は確かに自分を「勝ち組」の位置に定位して書いています。しかし、杉田さんはこうも書いてますね。「自分や家族の生命が奪われる、と本気で信じていない。この「安心」自体が、生活ゾーンの分断からもたらされているのに」。僕が生まれてこの方この歳になるまで一貫して、分断された生活ゾーンの「安心」の側を生きてきたのだという前提なくして、この一文は成り立ちません。その前提の根拠は何でしょうか。杉田さんは僕の生活の、僕の人生の、何を知っていてそのように断定するでしょうか。

 憶測で物を言うな、とは言いません。憶測でしか語れないことなどいくらでもあるだろうと思います。しかし、憶測には憶測であることの自覚が必要だと思うし、その自覚が明記されている方がよいと思います。また、「違う」と申し開きをする機会はあるべきだと思うし、「違う」という申し開きはまずは認められるべきだと思います。僕も誰かに向けて批判的な文章を書くときには憶測でもなんでも使いますけれど、その際に留意すべきことはあると考えています。──その上で、杉田さんの憶測については、それは違うよ、と僕からは申し上げておきます。

 僕は「「勝ち組」からの応答」という一文を、少なくとも六つの異なる位置を念頭に置いて書きました。(1)かつての、一歩間違えば破滅していたであろうギリギリの生活をしていた頃の自分。(2)今の、昔に比べれば安定している位置にいる自分。(3)助けることのできなかった自分にとっての大事な人。(4)幸運なことにギリギリのところで助けることのできた大事な人。これらについて、僕自身の具体的な経験あるいは具体的な知人を、思い出すことができます。それらを想起しながらその文章を書きました。

 まず、僕は「黙って死んでくれ」という位置だけでなく、そのように言われる位置で生きていたこともあります。ただ、「黙って死ぬ」のではなく、単に諦めなかっただけであるし、幸運なことに実際生き延びました。しかし、生き延びることを約束されていたわけでは決してありません。また、大事な人の命を失ったことならあります。失いかけたこともありますし、今もなお、安心とは言いがたい状況にもあります。「自分や家族の生命が奪われる、と本気で信じていない」などと言われるのは心外としか言いようがありません。──それでもなお、生き延びていられる、なんとか守れたこともある、そういうものが残っているからには、その幸運を考えないではいられません。だから「勝ち組」に自分を定位しました。しかし、重ねて言いますが、生まれてこの方「安全」の側にのみ住むことができたなどと述べたわけではないのです。

 具体的にどういう状況のことか、誰のことか、それを書くつもりはありません。しかるべき経緯を経て、しかるべき機会を得て、信頼できるごく親しい人に対して、話せる範囲で話すということはあります。しかし、このブログのようなところで書こうとは、少なくとも今は思いません。それは自分のことを書くにとどまらない、そこに関わった人たちのことを書かなければならないからであり、そんなことをしたくないからです。──語られていないことは語られていないのであって、そこに何もない、ということを意味しません。だから、杉田さんの憶測については、「違う」と述べておきます。

 さて、六つと書きましたから、二つ足りませんね。追加します。僕が生き延びるにあたって、僕の前に立ちはだかったがゆえに、僕が全力で撃退した人たちがいます。つまり、(5)僕が僕の身を守るために撃退した誰か、です。同時に、その人が、どうして僕の前に立ちはだかったのかも、ある程度理解しています。それは、その人がそのようにしなければ、その人自身が家族を守れなくなるような、そういう状況が作られていたからです。つまり、(5)の人も弱者であり、弱い者がさらに弱い者を叩く構図の中で、さらに弱い者の反撃によって撃退された、ということがあるわけです。このとき、弱い者とさらに弱い者を対立させている何か、これを考えなければなりません。

 さらに、確かに、「一貫して「安全」の側に生きてきたような人」もいるでしょう。これが(6)です。たまたま「一貫して「安全」の側に生きてきたような人」が、そのような位置に生きているということ自体が罪なわけではありません。ただ、その位置にいて、何かを伝えられたとき、その伝えられたものに対する態度を問うことはできるでしょう。だから、まずは「黙って死んでくれ」と自分たちが言っているのだとうことを自覚しろと、そこでもなお「失語と痛み」を感じないのであれば、それはその人自身の問題だと言うことはできるでしょうから。

 僕は自分を「勝ち組」に定位して語りましたが、それが僕のすべてだと述べたわけではありません。語られなかったことが見えなかったとしても、仕方のないことでしょう。しかし、語られなかったことをないものとして扱うことは、仕方のないことではありません。そのように扱うことの弊害は明らかだと思います。そのために「一貫して「安全」の側に生きてきたような人」は沈黙する。むしろ、そういう人たちに沈黙を許してしまう。他方、なんらかの当事者であった人は当事者として名乗りでなければならない状況に追い込まれる。僕は僕なりの当事者性を持っていると思いますが、できれば名乗り出たくないし、当事者として名乗り出る必要のない社会こそが求められるべきだと思ってもいます。これについては、最近、font-daさんが興味深い記事をあげていましたね。>「当事者が幸せになること」@キリンが逆立ちしたピアス

 当事者として語る人が現れることで、認識が一気に正されたり、広まったりすることがあります。その成果を享受してもいます。だから、当事者として自分を晒して語ること自体を否定しようとは思いません。しかし、それを期待してはならないし、それなしで済ませる努力が不要だとも思いません。当事者であることを名乗らなくても済む社会こそが目指されるべきだと思います。だから、他者の経験を取り扱うときには、語りえぬものが残されている可能性を常に踏まえておくべきだと思います。だから、僕は他者の認識と判断を問うても、その人の人生を問おうとは思いません。そこが僕なりの線引きです。杉田さんはその線を踏み越えていますが、どれだけの覚悟と確信を持って踏み越えたのか、つまり、僕は僕の当事者性を明らかにせよと言いたいのか、そういうことをまずは問いたいと思います。


 さしあたり、以上二点。

*1:サラリと言ってノホホンとしている人間がいることも、僕は知っています。そういう輩を、僕はクズだと思うし、機会があれば、面と向かって「オマエはクズだ」と言ってもいます。そのように面罵するに至るしかるべき機会、しかるべき経緯を持つことは稀ですが。しかし、クズこそが大多数である可能性もありますね。知りませんが。もしそうであるならば、そんな人間たちの社会が存続しようと滅びようと、僕としてはどうでもいい。