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モジモジ君のブログ。みたいな。

はてなダイアリーから引っ越してきました。

「愚行権」と「他者危害原則」による啓蒙の暴力

 tikani_nemuru_Mさんからお返事きました。見る限り、これで論は尽きたと思います。お返事は、基本的には、過去の記事の繰り返しですが、別様に書いて分かることもあるでしょう。>「寝言はいいかげんにしてくれ」

当たり前のことは、当たり前であるか

「相手を目的として語る=相手を説得するという目的を保持して語る」なの? orz
こんなアッタリマエのことをいってたの? 脱力が括約筋にまで及んで脱糞しそうだにゃ。

 この当たり前のことが簡単に捨て去られるという現象が、たとえばNATROM氏の発言において「この母親の考えを変えることはできないだろうが」という、その文言を言わなくても済むはずの蛇足として現れるのであり、たとえば「ビリーバーの考えを変えられない」という諦観として現れるのであり(これも言う必要もなければ、その根拠もないこと)、さらに、「散々論争した上で到達する諦観だからこそ説得力がある」という共感的なコメントとして現れるわけです。だから、わざわざ文句を言っている。この当たり前のことが当たり前に保持されてるなら、最初から問題になんかしません。(そして、あなたも当たり前になんかしてないでしょ?)

啓蒙する/されるということ

このセリフ(「自分の方が説得される可能性」)って
* 基本的に自分が説得する側であるという認識がなければでてこない
ものですよにゃ。

この、「自分(mojimoji)は説得する側・啓蒙する側にたっているという前提は、十字軍はバカに勝てるか - モジモジ君の日記。みたいな。以来、mojimojiが一貫してとっている立場ですにゃ。mojimojiは何度も何度も件の母親の認識が愚かであるとか間違っているとか言い続けているにゃんからね。一方、僕は医療ネグレクトという具体的な他者危害に介入せよと主張しているわけだにゃ。

 「自分の方が説得される可能性」って書いてるってことは、「自分が説得される側・啓蒙される側」でもありうると前提してることを明言してるんじゃないですか。どうしてそんな真逆の読みができるのか、不思議です。僕が「十字軍はバカに勝てるか」において、母親の認識が愚かで間違っていると繰り返し繰り返し断定していることの意味は、それが僕の認識における断定であり、あやまっている可能性があること、その上で、そのあやまりに気づく可能性を確保するために、あくまでも母親を説得可能な相手とみなして説得を試みることを位置づけている、という話であるということを「バカへの信を問う」で種明かししているわけです。

 そこが多分にレトリカルであることは認めますよ。「十字軍はバカに勝てるか」だけを読んだ人が「自分(mojimoji)は説得する側・啓蒙する側にたっているという前提している」と言って批判してくるのなら、むしろ、それは当時想定してたことです。ただし、よく読めば分かりますが、「十字軍」の文章は、「自分(mojimoji)は説得する側・啓蒙する側にたっているという前提」を置いても辻褄が合うし、その前提をはずしても辻褄が合うように書いてます。二通りの読み方ができるように書いてあるんです。そりゃそうですよ。その時点で既に「バカへの信を問う」の内容を念頭において書いてるんですから。

 だから、tikani_nemuru_M氏が僕に対して有効な批判をしたいのであれば、「自分(mojimoji)は説得する側・啓蒙する側にたっているという前提」という、自分に都合のよい前提での読みを批判するのではなく、僕が「バカへの信」において明らかにしているところの前提を踏まえて解釈した上で、批判しなければならないのです。(ところで、最初の先入見に支配されてしまって、「バカへの信を問う」との整合的な読みを試みることもせずに、都合のよい前提での読みにはまりこんでしまう態度、これって実に何かに似てますね。)──関連して、次の引用部。

馬鹿にも程がある。
いいか、チミを啓蒙してやる。チミは馬鹿だ。水準以下の馬鹿。
チミは決して啓蒙する側になんている能力はにゃーよ。

いいかあ>馬鹿
「その処置は本当に正しいのか、を問う審級は、ここには存在しません。」
じゃあなんでチミはこの母親を馬鹿だの間違っているだのと言ったんだ?>馬鹿
チミはどういう「審級」に基づいて件の母親を馬鹿だの間違っているといったんだ?>欺瞞馬鹿
「自他の認識をぶつけ合うことをせずに、自分の側の認識のみに基づいて」他者を馬鹿だの間違っているだのということはよくても、他者危害だと判断することは啓蒙の暴力なのかよ>ダブスタ欺瞞馬鹿

 以上の批判(?)は、「十字軍はバカに勝てるか」と「バカへの信を問う」を矛盾するように読解し、その読解を基礎として書かれているものです。しかし、この二つの文章を、整合的に読むことが可能だ、ということは既に述べました。だから、この批判は的外れです。具体的に応答しましょう。僕は僕の認識枠組みの中で、母親の行為を「愚行」「間違い」と断定しているのであり、それを問う審級があるとすれば、母親と僕の間で相手を説得することを目的としてなされる対話にのみ、ありうる、ということを述べているわけです。

 何度も述べたように、僕は実際にはこの母親に語りかける気はないし、しません。しかし、彼女に対して「子どもに対する他者危害」を理由に介入をなす誰かがいるならば、その誰かは母親との間で上記したような対話を行うべきだ、ということです。「その暇がない」ということはありえるでしょうが、「やる必要性がそもそもない」とは言えないわけで(議論をしないで済ませるときの理由とは、常に、その時間がない、という理由だけです。議論の「意味がない」とする根拠なき発言を、僕は容認しません)。そして、仮に議論したとして、そこで母親が納得しないとしても、もちろん、そのときには子どもを奪い取ってでも適切な治療を為すことを支持します(だから、tikani_nemuru_M氏は「チミはここで、他者危害という判断に基づく緊急の介入を否定していることはわかってるな?」などと書いているのはまちがいだ、ということです)。しかし、そのことは上記対話を要求することと何の矛盾もありません。逆に、「愚行権」の名の下に、母親との対話の審級そのものを不要とすることは、最悪の「啓蒙の暴力」ですね、という点は動きません。ここでの「愚行権」は、完全に介入側の都合で要請されているものです。

最初から結論が決まっているものを「議論」というのかにゃ? 結局認めにゃーのなら、議論する「ふり」をするだけ欺瞞だにゃ。

 議論における結論と、その都度なされる行動についての決断の区別もつきませんか。どっちも説得できないとしても、行動は決めなきゃなりませんからね。そりゃどちらかに決まるでしょう。ただし、当然のことながら、その結論は、後で何度でも再審に付されるんですよ。「その決定はおかしい」と思う人が、そのときになされた議論を辿り、さらに新たな思考を追加して、「やはりおかしい」と言う(だから、「虐待に介入しない」という過去の決断も、再審に付されて、やはりおかしい、となったわけです)。そのようにして、その都度の「啓蒙の暴力」が可能性として不可避ではあっても、どこかでは食い止める可能性を開いておくために、最低、そのためだけでも、議論はなされるべきなんですよ。事後的にであれ、説得される方が、説得されるべきことがされないままに継続されるよりマシですから。言うまでもなく、その都度の決定は「ルール上強い方が」しています。「ルール上強い方」の態度如何で、その内実は随分変わりもしますけどね。

※しかし、このtikani_nemuru_M氏の言い分からすると、国会での強行採決だの、衆議院三分の二の再可決だのというのは、「議論する「ふり」をするだけ欺瞞だにゃ」、ということでむしろ賞賛されるべきことなんでしょうね。与党ばかりが質問する形骸化した議会審議も、もちろん問題にもならない。

自らを理性的と規定したとき、理性は野蛮に転化する

「相手がなぜそのような認識を保持しているのか」を理解することは大事にゃんねえ。だからこそ僕は呪術ネタを繰り返し書いているのですにゃ。疑似宗教と堕落した神話 - 地下生活者の手遊びというエントリでは
* 呪術的・宗教的心性こそが人類の心の基底にある。われわれ人間は理性的な生き物ではない。
とも言っているしにゃ。このことは何度も書いてるだろ。

 まず、「呪術的・宗教的心性こそが人類の心の基底にある」、これは論証されたものであるよりも、むしろtikani_nemuru_M氏の議論の前提とされているものです。「理性こそが人類の心の基底にある」も、同様に前提としうるものです。これはどちらが事実であるか、というレベルでは決着がつけられません。ので、こうした前提を用いて思考することが、一体何をなしうるか、というところで比較しましょう。

 tikani_nemuru_M氏の議論を見れば明らかですけれども、彼は呪術的・宗教的心性を「理性とは異なる異物」として切り離しているだけです。そして、切り離された理性の領域について、「私こそ理性だ」と述べているわけです。「ホメオパシーを子どもに施術して傷病を放置するのは他者危害である」と、断定するわけです。再三述べているように、僕はこの断定を支持するし、可能なら子どもを親の手から離してでも保護すべきです。しかし、これこそ「啓蒙の暴力」の形式です。このホメオパシーについて言えば、この暴力は結果オーライ的に成功を収めるでしょう。だから僕は支持するわけですが。しかし、同様の形式において、たとえば脳死者がどのような扱いを受けてきたか、受けつつあるか、特に近代以降において*1、ということを考えるならば、ホメオパシーのケースでうまくいきそうだという見通しで満足するわけにいかないことは分かるでしょう。

 これでも分からない人のために、もう少し説明しておきましょうか。「判断能力のない」脳死者について、「こんなにまでなって生きていることは本人の利益にならない」という判断に基づいて、「かわいそうだから生命維持装置を切ってあげましょう」という類の「思いやり」が導かれているわけです。つまり、「無益な延命」をすることが他者危害に準じたものとみなされてさえいます。そして、脳死者の身体の中に、その人の存在を見ることを、医学的には根拠のない「呪術的・宗教的心性」とみなして取り合わない医療者がどれほどいた(いる)ことか。

 ここで、一つ前の引用部の最後の一文を思い出してみましょう。彼はこう述べています。「一方、僕は医療ネグレクトという具体的な他者危害に介入せよと主張しているわけだにゃ」。ここで、何が他者危害であるのかを争う気はさらさらないわけです。後の方で、それは具体的には犯罪である、との記述がありますね。しかし、それはなぜ、いかに犯罪であるか、の理由が問題になるのであり、その理由がどこで問われるのか、問い直されるのかが問題であるわけなのですが、それを考える気はないようです。だとすれば、リビングウィルだとか、終末期医療相談料みたいな制度ができて、それに沿って本人意思を確定(確認ではない)し、それにそって「尊厳死」(と呼ばれる尊厳殺)が行われるようになるとき、仮に患者を延命するとすれば、「本人の意思を踏みにじる他者危害」として医師が処罰されるようになるでしょう。tikani_nemuru_M氏の理屈では、これは容認されるでしょう。しかし、「啓蒙の暴力」とは、まさしくこういうもののことを言うのですよ。(幸い、日本ではそこまでは行ってませんが。しかし、欧米では既にそのようになっている国もあると聞きますし、日本もその方向へ向けて行こうという勢力は非常に強いですね。)

 こういう態度は、件のホメオパシーのケースのように、一見是非がハッキリしているように見えるところで育まれます。そして、子どもを救出する根拠となる「愚行権」、「他者危害原則」は、一見よいアイデアのように見えるでしょう。しかし、それこそがまさに落とし穴なのです。僕が問うているのは、子どもを救出することの是非ではなく、「愚行権」「他者危害原則」という概念の性能(適用方法の是非)です。それはホメオパシーエホバ輸血拒否のケースでは、一見うまく作動しているかのように見えます*2。ですが、ここでは脳死者の尊厳死というケースに即して、その性能を「反証」したわけです*3。僕の問いはここから始まっているんですよ。自説に都合のよいケースばっかり探し回ってたら、tikani_nemuru_M氏のようになるのは無理もありませんが。

 ここでtikani_nemuru_M氏が言う「自らを理性的と規定したとき、理性は野蛮に転化する」という言葉について考えてみましょう。ここで「自ら」とは、属人的に理解してはいけません。ここでの「自ら」は、ある種の思想であり、属人的に言えば、ある人の思想全体の一部を為す思想です。野蛮は、理性と「呪術的・宗教的心性」を分けた時点で、そこでこれは理性的だと認定された領域にいおて、既に発生しているんです。彼は、自身が理性的だとみなした領域においては徹底的に野蛮でありながら、「バカはお互い様」という形でそれぞれの内部に想定された「呪術的・宗教的心性」の領域に対してのみ、寛容を発揮するわけです。寛容をかなぐり捨てる必要が出てきたときには、それを「他者危害である」とする論理を何か思いつきさえすれば、後は躊躇なく野蛮になることができるわけです。

 だから、呪術的・宗教的心性を理性とは異なる異物として切り出すことを理解とは呼べませんよ。到底。それこそがまさに「理性を名乗る」ことなんですから。むしろ、呪術的・宗教的心性と理性を地続きのものとして把握すること、把握できていない部分をも浮き彫りにし次なる理解の布石とすること、理解を可能に対する態度とは、こういうものです。と僕は主張しているわけです。

 ちなみに、リンク先の記事でアマルティア・センの名前を出していますが、「合理的な愚か者」という論文の、タイトルだけじゃなくて中身まで読んだ上で考え直した方がいいですよ。センは合理的経済人モデルが自己利益にしか反応しないことに対して、共感やコミットメントという概念を出して批判していますが、共感やコミットメントを非合理だと述べているわけではないです。むしろ、共感やコミットメントに基づいて行動する(こともある)人間のあり方を合理的であると考えているし、その観点から合理的経済人のモデルの非合理性を批判しているのです。合理性を攻撃しているのではなく、合理性の意味をめぐって争っているんです。

「啓蒙の暴力」に対する開き直り

僕は確かに愚行権のことを「馬鹿をする権利・愚劣でいる権利」と書いたにゃ。しかしそれは、私的領域における行為について、「客観的」に何が賢くて何が愚行かを決定することができにゃーからだ。どんな行為だろうと、それを愚行と見なす誰かが存在するだろうにゃ。例えば、あらゆるスポーツは愚行だ、と僕は半ば本気で思っているしにゃ。しかし、いくらスポーツが愚行であると僕が考えているとしても、愚行であるという理由でそれを禁止したりすることはやっちゃいかんだろ。

スポーツ好きの「認識」を改める、なんてのもいい迷惑だにゃ。

つまりね、愚行権っていうのは、「馬鹿はお互い様」の寛容の原理をレトリックを用いて定式化したものなんだにゃ。

 「「客観的」に何が賢くて何が愚行かを決定することができない」、そんなことは最初から話の前提です。で、「禁止する」とも、「「認識」を改める」とも、僕は述べていない。「「認識」を改めようとする」は言いましたけども(そして、最終的に説得できるかできないかにはこだわらない、とも述べました)。

 僕の申し開きをした上で、tikani_nemuru_M氏を批判しましょう。彼は、「何が愚行か」は決定できないとしながら、「何が他者危害か」は決定することができると考えているようです。んなアホな。まぁ、「愚行」よりは範囲が狭そうではありますし、禁止の対象を「愚行」から「他者危害」に限定したところは重要な進歩ではありましょう。それは認めます(当然)。しかし、「何が他者危害か」を決める困難さは、原理的には、「何が愚行か」とさほど変わりません。だから、その先を考える必要が常にあるわけです。

 ところが、まぁ、次の文言を見ると絶望的ですなぁ。

「何が他者危害とされるかということが異なる社会では、他者危害の対象が異なる」というアタリマエのトートロジーだろ? 他者危害の概念は変わりえるけど、それがどうかしたの?

 何が他者危害とされるかは、社会によって異なるのは当然です。しかし、それを「どうかしたの?」と言い切るところは、さすがにスゴイです。ここで、一連の議論については、結論は出たと思います。ここが、僕とあなたの分かれ目です。tikani_nemuru_M氏は、ある社会が何らかの行為を「他者危害だ」と認定し、それを禁止するならば、それは制約なしに認める、ということです。これ以上「啓蒙の暴力」を避けることはできません。あとは開き直りましょう、ということです。

残務処理

重大なことほど認知的不協和が強くなるってのは、認知的不協和の定義からしてアタリマエだろ?

 当たり前ですよ。だから、僕は説得には時間がかかると思っていますし、十年二十年スパンで考えないとダメでしょうね、とも常々述べています。今回の件に関して言えば、「愚行権」や「他者危害の原則」になんて、それこそtikani_nemuru_M氏が考え書いてきたほとんどすべての基盤となっているようなものであって、その再検討をせよと僕は述べているのですから、どれほど強硬な反論*4が投げ返されても不思議ではないと思ってます。

 そして、「他者危害の概念は変わりえるけど、それがどうかしたの?」という本音が開陳されたところで、僕とあなたの立っている場所がどの点で違うのかが、これ以上ないほどハッキリ示されたわけです。後は、あなたが「本当に「それがどうかしたの?」で済む問題なのか」と考えはじめるかどうか、ということでしょう。問いは既に明らかです。あとは時間をかけて考えてみてください。

ああ、僕は「子供だから」という理由でいろいろと禁止するぜ。どっかの欺瞞馬鹿は二歳児や三歳児と銃の扱いについて話し合うみたいだけどにゃ。

 言うまでもなく、僕も子どもに銃は触らせませんね。問答無用で。そもそも銃を持てるなら持つか、という問題がありますが、それはさておき。しかし、なぜ銃に触ってはならないのか、について、子どもと共に問うでしょう。これは、「問答無用で触らせない」ことと両立することです。

 ちなみに、同じような理由で、女の子を学問から遠ざけた時代がありますね。学問のできる女なんて、嫁ぎ先がなくなる、とか言って。そういう親に、「そのとおり問答無用で女子に学問させるまじ」と言うのか、「向学心を抑圧するなんて他者危害だ」と言うのかは、まさにtikani_nemuru_M氏のお好み次第、「社会によって変わる」ということなんでしょうね。ひでぇリベラルだ(笑)。

 この馬鹿理屈なら「わかっちゃいるけど、やめられない」は愚行でなくなるんだけどにゃー。わかっちゃいるけど麻薬打つのも、わかっちゃいるけど泣きわめく妻子を尻目に博打三昧も愚行ではにゃーのかね?

 僕はそういう話なら、「わかっちゃいるけど」は本当に「わかってる」んですかね?と問いますが。ちなみにアル中を含めて依存症は、「愚行」のような主体的選択ではなく、「病気」だと認識した方がよいようなんですけどね(って、西原理恵子も言ってたよ、もちろん、「愚行」でもありえるでしょうが)。むしろ、それを「愚行」と名指して放置する態度が、その「病気」としてのあり方への理解を妨げ、効果的な支援を遅らせ、といったことが最近じゃ指摘されているように思いますが。

質問(3)について。子どもについて介入するのであれば、「愚行批判をしなければならない」と述べています。

すでに潰した論点にゃんな。批判している間にガキが死ぬ。

 既に指摘したとおり、これは誤読であって、子どもをほっとけと述べたことはないんですよ。子どもを助けた後でも、既に為された議論は残るし、子どもを助けたこと自体を再審に付すことはできるわけです。

質問(4)について。「他者危害」以外のケースについて「バカはほっとけ」なのでしょう?

ぶっぶー
「他者危害」以外のケースについて「バカはお互い様」だにゃ。
それとな、批判は勝手にやってくれと何度言わせるんだ?

 だから、子どもを助けるために介入する誰かは「批判しなくてもよい」=「ほっとけ」なのでしょう?

 質問(5)について。

ホントにぜんぜんわかってにゃーな。
チミは無意識が行動に影響を与えるということがわかってにゃーのかね?
認知的不協和ってのも自己欺瞞なんだぜ。無意識的には危害であるとわかっていても、それが意識化されにゃーからこその自己欺瞞なんだよ。

 そのように述べてますが。で、それらの自己欺瞞は、自己欺瞞としてのあり方が違う、と述べているのですが。tikani_nemuru_M氏において同じだ、ということは承知しました。)

行為は同じだろ?
虐待は行為であって認識ではにゃーのよ。何度言わせるんだ?

 行為に対しては、僕は介入することをやめよ、と述べてませんが。介入には、認識を問う姿勢が不可欠だ、ということを述べています。

他者の内面を問題にしているという点で、思想・能力と認識は同じことにゃんがな。

あとな、他者の内面を問題にするのはシューキョーだぜ。公的に他者に介入できるのは具体的な行為に関してだけ、というのが非宗教的自由民主主義の基本なんだにゃ。チミは知らなかったみたいだけどね。

 なるほど。「公立学校の教師たるもの、国旗・国歌に儀礼を欠かさないことは当然」、しかし、内面には踏み込まない、というわけですね。確かに、自由民主主義を標榜するわが国とその政権与党はそういう認識のようですよ。まぁ、んなアホな、という話ですが。

 僕が述べているのは、行為を問題にした以上、既に内面は問題にされているのだ、ということです。それらは切り離せない。しかし、切り離せたつもりで行為に介入する(しない)というだけのことです。そこでは「行為と内面を切り離せる」は事実ではなく、あなたのようなミルミルしたリベラリストたちが要請する前提であり、問い直していないことなわけです。

 公私の分離もそうです。公の介入を支えるのは法であり、法を支えるのは法を生み出す議論であり、その議論は私的な個人に担われて遂行されます。一体、どこで私と公がチェンジするのか。そこを問い詰めてないから、「他者危害は、たとえば法律」などというブラックボックスを作ってしまうことになるわけですよ。

 以上の点において、あなたのリベラリズムは「愚行権」「他者危害原則」の教条的解釈に縛られた、死んだリベラリズムだということです。その枠内で起こる暴力に対しては、徹底して無頓着という類の。で、そこらじゅう、この手の死んだリベラリズムだらけですよ。ああ、うんざり。


※編集段階の削除し忘れたところを一部削ったり整えたりしました。(13時頃)

*1:でも、近代以前は脳死者になるなら、そのまま死んでるか。

*2:エホバの場合でも、不可逆的な介入において、問題になりうる、ということも言いましたが。

*3:まぁ、尊厳死は正しい、という可能性も、まだありますから、強い疑義を突きつけた、くらいのものでしょうか。

*4:といっていいのかわからんけど。